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2007年10月の記事

2007/10/30

スタート画面をiGoogleに換えてみました

Igoogle ブログを勉強し始めたのはココログで、始めのインターネットの画面もniftyだった。しかし画面の煩雑な感じが気になっていた。ニフテイ独特のオレンジ色は好きなのだが、画面の中の検索する項目は興味が無いまま使わずにいた。そこでウィキペディァで調べるときに開くグーグルを覗いてみた。そして変えてみた。

iGoogleだ。一応写真のようにコンテンツを選び、レイアウトした。一番気に入ったのは、Art  of the Dayのコンテンツだ。昨日始め見たときはルーベンスの作品だったが、操作する途中でミケランジェロに変わった。夜の9時ぐらいに更新するようだ。

天気予報は絵で表現されているものを選んだ。また、地震情報も選んでみた。ウィキペディアも画面内に収まるようにした。これからまだたくさんあるコンテンツを自分なりに選択する楽しみがある。

昨日から画面を開く楽しみが出来た。このところグーグルのページ・ランクが2から1に落ちてしまい、悲しい気分が、ネバーエンデイング・ストーリーの哀しみの沼のように私を支配していたので、ココで少し気分を入れ替えて、今度はまた挑戦しよう。

コンテンツがかなりたくさんあるため、試行錯誤を繰り返すと思うので、一応決定に至ったらまた、報告したいです。

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2007/10/23

ミュンヘン旅情

Doitu0706ebijpgDoitu0706raionjpg  今年の初夏にドイツに行ってからもう4ヶ月が経った。いつだって思い返せばいろんな出来事があって月日が経っている。

今年の《初夏のドイツ》は去年の《クリスマスのドイツ》から半年を経て行ったため、贅沢なことではあるがどことなく感動が少ないように感じていた。

ところが今日写真を見て考えが変わった。実は今日はどうしても、家にいないといけない事情があり、朝から写真の整理をしていた。私の写真はピントも露出もいい加減で、写真家の妻として恥ずかしい限りではあるのだが、思い出が秋の深まりとともに熟してきたようで自分の撮った写真に癒された。ただし思い入れと思い込みが入り混じっていて、他の方が見ても感動を呼び覚ますようなものではないと思うが、私には極めて優れた写真なのだ。

ドイツ、ミュンヘンでの散策はすばらしい時間だった。今まで8回夫婦でドイツに行ったうち、5回ミュンヘン空港を使って出入りしている。自分たちでプロデュースしているので、慣れない所からでなく、慣れた所からスタートしていこうと考えているからだ。

Doitu0706hanajiijpg 写真は上がミュンヘンのマルクトのシーフード屋さんと花屋の前のデコレーション。下のおじいさんは帽子にも花、胸にも花。ニコニコして幸せそうだった。私に何か話しかけてきたけど、言葉が解らず、残念!

なぜ、ドイツが好きなのだろう。環境に厳しく対処していて、空気が澄んでいるからなのか。何も分析できていない。私は今まで行った外国はドイツだけなので、比較しようもないが、私の周囲には海外に行くチャンスに恵まれた人が多かったため、その人たちの話を聞いては漠然とドイツに行きたいと思っていた。今日あらためてドイツへの旅情が募ってきた。

Danke ! この言葉が使いたい! Guten Morgen ! 耳に心地よい響き。Bitte schon !

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男の子の七五三

753_14 この間の日曜日に親戚の子、トモクンの七五三に呼ばれて行った。よく晴れた日曜日で、船橋大神宮の境内には早い七五三をする子どもたちとお宮参りの赤ちゃん家族で賑やかだった。

10組ほどが名前を呼ばれて、神主の祝詞は「かしこみーかしこみー」「あめつちのー」「・・・・がおのこ」などなど、神社系の言葉にうれしくなった。ここ1、2年仏教系の言葉ばかり耳にしていたので、不謹慎かもしれないがマジでにんまりした。

やっぱり日本人だ。

二礼二拍手一礼を皆でした。トモクンが頭を下げる時、ケイコバアバは思い出したぞ。娘が結婚を決めて私に話した時、「結婚式はしない」とかなんとか言ったときに、「結婚すると必ず、自分より偉大なのもに対して拝みたくなるような時が必ずあるから、そういう場所で結婚式をしてね。」と言った。どちらの方の娘に言ったか忘れたが。一人は山手聖公会の教会、一人は明治神宮で結婚式をしてくれた。

私は二人の娘の母親だったので、男子の七五三に出るのは始めてだ。着付けの面倒さはなく、シンプルに成長を喜べる。まあ母親でなく親戚の子だから、気も楽なのだけどね。

式の後、お婿さんのお父さんとお母さんと久しぶり会い、船橋で有名な東魁楼本店の個室でお食事をご馳走になった。中華料理が何品出てきたかわからぬほど出て来て、遠慮もせず、むしゃむしゃと心からトモクンの成長と両家の弥栄を寿ぎ、食べつくした。若い人たちと一緒だとスケールが違う。その後の夕食一食は断食した。

写真はトモクンが千歳あめがどんなものかと袋を覗いているところ。

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2007/10/20

月を描く・Ⅱ

Tuki_koutarouTuki_manamiTuki_momo               

             

ただ今家に戻りました。叔母さんのうちはきれいにリフォームされていました。本当に家の道具というものは増やしたらアカン。私たちも体力のあるうちに身辺整理をしておかないとアカン! 何で大阪弁になっちゃったのかしら? 

月を描く・Ⅱ は左からコウタロウ、マナミ、モモコだ。コウタロウは月と大きな木と自分を描いた。宙に浮いたようになっているので彼に地面の説明をしたら、坂にした。コウタロウはまじめな性格のようで、仕事を丁寧にするが、今まで、もう少しという感じがした。この絵は坂になったところと空の間がずいぶん開いていてバランスをとっているようで、ちょっと面白い。

マナミは山とクマと月とおうち。星が雪みたいに見えるけど大らかな感じがいい。女の子は細かいところに目が行き過ぎて、全体を見る事をしない傾向がある。今回のマナミはそういう点がなくて、いい。マナミの大らかな可愛らしさが私は良いと思った。

モモコは月と教会をかいた。夕方の空の色を思い出させてグラデーションをした。 街路灯と猫は絵本を少しだけ模写したがったので本当はいけないことだと話して描く。《百万回生きた猫》 の最後の猫が愛した白猫だ。モモコには真似をして絵を描いて、本を売ったりしたら著作権に違反すると話した。今日だけは模写の勉強をさせていただいた。モモコは犬のハッピーがいるが猫は飼ったことが無い。自分が真似をして書いて、これから外で会う猫をよく見るだろう。

今大泉学園から帰りながら見てきた月は半月に近い、上弦の月だった。 きっと誰かあとりえの子供たちもこの月を見ている。自分の描いた月をこんな形にしたらどうだっただろうと考えているかもしれない。そういう意味でも今回の課題は良かったと思う。 

月を見ても 《旅歌ノート》 には一句も浮かばないのが悲しい。諸々の人のことを考えてあげないといけないのが、大変なのだ。自分のことで精一杯な世の中なのだから。  

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月を描く・Ⅰ

Tuki_kentarouTuki_harukiTuki_hmiku   

           

           今回は月を描いた。左からケンタロウ、ハルキ、Hミクだ。

子供たちは絵を描くと、きまって太陽が登場する。それならば、たまには秋の月を描いてみようと思った。子供たちはかえって、新鮮な気持ちで考えて描いたようだ。

秀逸はケンタロウの月。彼は細くて、毛が数本の絵筆を使ってゴシゴシ描くのが好きだ。私が水を混ぜて、「飲むヨーグルトか、牛乳くらいの滑らかさにして描いてみよう」と言っても、「僕はこれで良い」とこの描き方を主張している。とってもかわいい頑固さんだけど、お母さんはしつけや育児に関しては大変ではないかと感じる。でもこの絵はなかなかの作品に仕上がっているから、いいですよね!

ハルキは入ったばかりの子だ。月と自分を描くといい、腕を棒状のままにしていたので、私が手でパーを出すとこんな絵にしていった。このようなことを子供にを繰り返して働きかけて、指導していき、ある日一枚の良い絵がかける。このマンション団地にめったに天才はいない。地道な努力の果てに絵が好きな子が成長する。

ミクは前回も良い絵が描けたが、ずっと前にハイビスカスでデザイン的に優れていると感じたので、今回も月と海を描いてからデザイン的処理にしようと促す。銀のマーカーを渡して好きなように描いて良いと言う。のびやかな描き方がいい。がんばれ!

次に3人の子の月の絵を紹介する予定だがタイムオーバー、親戚の叔母さんの家のリフォームの片付けをしに行き、叔母さんのお誕生会をしてきます。、明日が親戚のトモクンの七五三で、今夜私の体内にエネルギーが残っていたら、ブログ更新します。

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2007/10/13

清里KEEPのポール・ラッシュ祭に寄せて

Paul_rusch 10月13日、14日と続けて八ヶ岳南麓清里清泉寮ではポールラッシュ祭が催されている。

私はこの夏の終わりに 「清里の父 ポール・ラッシュ伝」(山梨日日新聞社編)を買い求め、10月始めに読み終えた。いつも清里の萌木の村のロックで食事をしている私たちを優しそうに見ているおじいさんだ。実はこの本を読み終えて、ポール・ラッシュはなかなかの人物なのだと判った。そして、関東大震災が起きた後に日本の復興に寄与し、また第2次世界大戦の後の疲弊した日本のために力を尽くしてくれた人だったのだとわかった。

それはどう考えても、大変なことなのだ。今では日本は世界に名だたる経済大国になったが、今から90年前、つまり、私の母が生まれた頃の日本では衛生状態、教育の普及もお粗末な状態だった。それはラッシュが関東大震災の時に来日した時のことではあった。

ラッシュが日本に来たのはキリスト教の聖公会派の普及のためでもあった。そして、アメリカの富裕層の寄付金を集めては、立教大学、聖路加病院、野球やフットボールの普及、また何度も寄付金をアメリカに募っては、第2次世界大戦前には、聖アンデレ教会、清泉寮を築いた。それらは、日本の著名な政治家や大使館、宮内庁の人々を交えながら進めていった。

大戦前にはもちろんアメリカの寄付金も集まりにくく、清泉寮の建設は並々ならぬものがあった。そして戦時中ポールははやむなくアメリカに戻り、GHQというアメリカ軍の中枢に位置し、すでに日本の敗戦を予定して行動していた。それは日本から移住していた人々の日系二世の人たちに戦後の敗戦日本国を助けるためのプログラムを作っていたのだ。ポールは日本軍が日本人全体を戦争に巻き込んでいると考えていた。

この本の第一刷は1975年に山梨日日新聞の連載「ポール・ラッシュ伝」をまとめて編集されている。山梨日日新聞社 井尻俊之氏が担当している。それから32年が経っている。ポール・ラッシュが《キリスト教の伝道》のために清泉寮を築いたのであるが、ラッシュ亡き後28年たった今では、《教育と環境の清里プロジェクト》となっている。

今日と明日に催されているポール・ラッシュ祭はカンテイ(郡)フェア(祭り)とも言い、収穫感謝祭となっている。清泉寮と国道141号で離れている萌木の村のロックの店内ではポール・ラッシュの写真が飾られ、大きなカボチャが置かれハロウィンのお祭りをしているはずだ。

私たちは清里の隣りの川上村に山小屋を持ち八ヶ岳の自然を愛している。また、幼稚園、小学校、中高と教会の日曜学校で聖書を読んだ女の子として、ポール・ラッシュさんの業績を私のブログで僭越ながら読後感として紹介しないといけないと思ったのです。

今度川上に行ったら夜空を見上げてうちの父のそばにきっとあるポール・ラッシュおじいちゃんのお星様も探すからね!

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2007/10/11

チェンバロの演奏曲を聴いて描く・Ⅱ

Chenbaro_k_erinaCyenbaro_atusiCyenbaro_k_yui   

左からエリナ、アツシ、ユイだ。

エリナは性格もしっかりしている。この頃は私によく話すし、良く笑う。ユイチャンと仲良しでいるのが普通のことのように見えるが、同学年だが、3才は上にも見える。今回の絵も音の複雑さを線と面と点でよく捉えた。

アツシはこの絵を描くまで、30分は考え込んでいた。かわいそうになってしまうほどだった。いつに無いことだ。デザイン紙に描いたので方眼が描きやすかったのかもしれない。アイデアが決まると一気に描いていく。さすがに男の子だ。

ユイはメインの絵に、小鳥を入れて描いた。周りにはハサミで切りこみを入れた○△◇を貼った。

ユイは最近検査入院の話がよく出てくる。検査で、血をたくさん2本も採られて、それでいて、人参をたくさん食べてくださいって言われちゃった、と言っている。ユイチャンにとっては小さい時から経験していることかもしれないけれど、やはり、そばで見ていると大変なことを乗り越えようとしていると感じる。でもあとりえでの絵での表現には、力を蓄えたユイチャンを感じる。筆圧もほかの子より強い。がんばってね!

ところで、あとりえ・チビッコでは音楽を聴いて絵を描かす事をよくします。初めての子はとまどい、困って、考え込みますが、何度かするうちに気持ちを切り替えてすすめていきます。これはやはり情操教育なのだなと思っています。そして小さい時に体験することで良い結果を生むだろうと感じています。

昔、娘がまだ、1才ぐらいのときに近所に住んでいた男の子を呼んで、一緒に音楽を聞かせたところ、泣き出してしまいました。特別怖い音楽ではなかったと思いますが、その子には 聴き慣れない音だったのでしょう。小さいうちからきれいな音楽を聴いて育つ方が、聴かないで育つより良いに決まっています。そして、耳で聞く音楽と、目で見て手を動かして絵を描くという、五感のうちの三感も使ってすることが脳にはすばらしく良いことだと思います。

今回はギリギリまで、載せようと準備していた子たちがたくさんいました。でも、私の構成上、載せられませんでした。ケンタ、カノン、レイラ、が感覚的に描けていました。そしてこの課題があるので、私も車の中では良い音楽を聴こうと耳をそばだてています。

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チェンバロの演奏曲を聴いて描く・Ⅰ

Cyenbaro_moenaCyenbaro_hmikuCyenbaro_risa              

             

            

左から、モエナ、H・ミク、リサの順。子どもたちにチェンバロの楽器による演奏曲を5曲ほど流して聴かせ、描く気がでてきたら描いていくように話す。描画材料はマーカーだ。

他の子が質問が多いなか、モエナはこちらの2,3の注意点を言うと、それ以降、何も聞かず、この絵を描いた。小学1年生だ。モエナは以前、わからないと言って泣き出したこともあったが、今回は何も心配することなく、鼻歌さえ出てきそうに描いている。絵を頭の中にしまってあって、それを思い出しながら描いているという感じだ。実はモエナのお母さんはバイオリンを教えている。多分上のお姉さんに教えている時に一緒に小さい時から音楽を聴いているのだろう。彼女は胎教で聴いているはずだ。

チェンバロは18世紀の始めに、バッハ、ヘンデル、クープランたちによって、作曲された楽曲を奏でるのに構成された鍵盤楽器(簡単に言うとピアノ)で、貴族のお城などで演奏されたらしい。ピアノより、自由な響きが感じられる。

描画の手順はは、まずメインの絵を描き、ほかにも描いてからまわりに貼ってもいいと言った。それはチェンバロ曲が5曲が作者違いでMDに入れてあるからだ。

H・ミクはこの頃、ブログには紹介していなかった。分かってはいたが、私の感覚との違いだろうか、採り上げにくかった。でも、ここ2週間あとりえが休みの間に、ミクちゃんの紹介を、しなくちゃと考えていた。いや、紹介したかった。今日はいいのが描けた。

ところで以前、あとりえに米沢君という兄弟が来ていた。お兄ちゃんは鈴廣の蒲鉾板絵展に2回も上位入選するほど、絵にアイデアがあった。そこでいつもどうしても兄の方をほめてしまっていた。その結果、兄の描いた絵にはいつもハナマルが付けられていた。後日お母さんに会った時に、弟がいつも僕もハナマルがほしいと、言っていたと言う。その時の気持ちに似ている。子供とはいえ、上手い絵、努力した絵にはハナマルが付くけど、中途半端ではハナマルはあげられない。H・ミクももう少し、強気を出してやりきってほしい。確かに学年が高くなると常識力が出てきて、失敗を恐れる気持ちが大きくなるようだ。

ところで米沢弟も後半にはかなりハナマルを上げることが出来た。今、どこでどうしているんだろう。2人とも慶応を出ている。弟は文章力があると思っていたのだが。

リサは、平面構成の塗る面積が多いために強さがでている。性格的にも強いところがあるが、入ったばかりの頃はその強さで、描く絵がいい加減になっていた。しかし最近は徐々に絵の構成がしっかりしてきた。絵を指導するというより、性格を理解して、コントロールしながら、やる気を育てているのだ。ここまでに時間がかかっている。あいか先生が時々、りさちゃんをかわいがるように指導している。(この傍線の部分若干、文章の不備があった事をお詫びし、訂正いたします。子供を愛する気持ちが強まって、文章が暴走することがありますので、気をつけて書きたいと思います。)

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2007/10/04

今日はブログ開設三周年!

Shoujo3 早いもので今日でブログ開設をしてから3周年を迎えた。初めてウェブ上に載せた写真はフランス、コルマールの少女の後姿だった。

最初のブログのタイトルは「はじめましてこんにちは」

初心にもどって今日も発信したい。左はオーストリー、ザルツブルグの子供祭りの写真だ。初夏にドイツから戻り、写真を小さく載せたと思うが気に入っているのでまた、ブログを飾りたい。

もう戻らない子供時代に思いを馳せ、そして、この今こうして自由に表現が出来る幸せをかみしめて。自由というよりは自在にと言う方が正しいかもしれない。まあそれほど自在では無いのだが、少しずつWEBを学んでいるという意味で進歩しているから。私のブログの先輩の皆様、これからもよろしくお願いいたします。

そしてこれからもあとりえで教えながら、ブログで自分の意思を表して生きたい。3年前に言っている、あとりえを巣立っていった子供たちとの交流も今年の春に実現できた。

もう少し、あともっと、MORE! 子供たちの守りとなって、造形絵画の指導をしていきたい。出来うるならば! 

今日は希望が丘教室がある。少人数だが、皆まとまって楽しく表現している。今日の課題は「音楽を聴いて描く」。課題は18世紀の頃の楽器を使った音楽で奏者の沼尾美和子氏はチェンバロをザルツブルグで学んでいる。

自分で自分におめでとう!

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2007/10/03

冨井大裕 展覧会について

Tomiitenrankai Tomiitenrankai_2  あとりえ・チビッコの先生を2005年までしていただいていた冨井大裕先生の個展が京橋ASKと、武蔵野美大の資料図書館民族資料室ギャラリーで開かれます。

先生は現在武蔵野美術大学において、助手を務め、若い学生たちの相談相手となりながら、自らの制作をし、発表を続けています。

あとりえの子供たちからは、冨井先生を慕う声も聞こえます。応援しています。ちなみに私はこのスーパーボールの作品は好きです。

Tomiitenrankai_1Tomiitenrankai_3   下の作品は武蔵野美術大学での展覧会です。文字の方はクリックすると大きくなります。

ご活躍心よりお祈りしています。          

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内田樹の研究室「生きていてくれさえすればいい」について

私のお気に入りにいれてある《内田樹の研究室》 に「生きていてくれさえすればいい」の記事が載った。内田先生は私より年下で9月30日に57歳になったお誕生日をしているので、四捨五入すれば私、KEICOCO先生と同じ世代になる。

お酒も、合気道もフランスもお好きなようで、 《うるわしのブルターニュ》 さんがコメントを入れていたときから知ったブログだ。最近小林秀雄賞を得て、日本を引っ張っている人だと思っている。私は女子美時代に小林秀雄の本を読んだがよく解らなかった。

内田樹のブログは今まで何気なく読んできたが、今日の「生きていてさえくれればいい」の記事は街場にすむ (この言葉は内田樹先生へのオマージュを籠めて) 母親として私も、いつも感じていたフレーズであり、言葉なので、それを小林秀雄賞をお取りになる方が書くとこんなにすごい納得のさせ方が出来るんだと感じた。それで私のブログを読んで下さっているお母さん方にも僭越ながら紹介させていただきます。内田樹を知るチャンスとしてです。

私も我が子に育児、教育、しつけの部分で母親として接し、子どもたちを目に入れてしまうほどかわいがって来た。いや、目に入れはしなかったが、マリア様のように優しく見つめて育ててきた。そして、長野に山小屋を作ってからは、娘たちの自立に向けて違う接し方をしてきたと思う。高校生と大学生の時からだ。

それは新しい自立に向けての、親の姿勢を正したということだと思う。親という字は立つ木を見ると書く。それは、心配なこと、注意したいことがあっても自分で気付かせて進むことだ。立つ木を見ていないといけない。

動物や鳥たちは自然の中で、そうしたことを理屈ぬきに宇宙の言葉としているのではないだろうか。

我が家のマンションは2階にあるが、裏の椎の木に山鳩が巣を作ったことがある。写真を撮り、観察日記を付けて私たちは学ばせてもらった。そして最後に子バトが巣を飛び立つ3日前ぐらいから親鳥は餌をやらなかった。そして親たちは外泊した。イライラした子バトは枝と枝の間をうろうろとうろついて痩せていった。そして符牒を合わせたような異常な天気、雷が鳴るという事態に促されるように子バト2羽は巣をあとにした。

「ママとパパが居なくたって自分で餌をとりにいきますよ!」

そうやって、子供たちが自立すれば、生きていてくれさえすればいい、という気持がしてくる。だが、子どもがまだ、我が身を守るすべを知らないうちは注意はしなければならないと思う。その時期がいつかが問題でもあるのだと思う。それは、その家、その家で違う事情があるようにまた違っているのだろう。雷が鳴る日かもしれない。

さて、内田樹先生のご出身などを本日見てみましたら、自由が丘、都立大学大学院、東大フランス語科、など私の履歴とオーバーラップというか、すれ違ってする部分もあるようで、楽しくなりました。

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