« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月の記事

2008/10/27

学校選択性についてと《あとりえ・チビッコ》

少子化が叫ばれて久しいが、あとりえ・チビッコもその影響下にある。

ところで今日の内田樹の研究室 が《学校選択制》についての講義をしている。ちょっとだけ我田引水になるが紹介させていただいて市井の絵画教室あとりえ・チビッコもそれにあわせて理論をちょっとだけ言ってみたい。

あとりえチビッコでは31年前、自分の娘たちに教えたい、作らせたいと思うことを試行錯誤して始め、指導してきた。自らは水彩画や日本画の指導を受けてきた。そして近所の子どもたちに造形絵画を教えてきた。

あとりえ・チビッコのブログはもう5年経った。教育のカテゴリーに入るのではあるが、その範疇に入りきることへの反発があり、文化・芸術のカテゴリーを選んでいる。

女子美術短大・生活美術教室が基本にもなりデザインも少々学び、その時の工芸材料学の福岡先生から学んだことは工作材料を選ぶ時のヒントになっている。また幼い日々は目黒七中の美術講師・渡邊先生(オマージュを籠めて)の画塾に通い、また院展の故・横溝由貴先生にも日本画の指導を仰いでいた。私の趣味である菜園好きと虫愛ずる姫の路線からは長野の山小屋と横浜をスイッチターンする生活も選んでいる。

子どもたちへの絵画の指導では私の個性を出来るだけ見せないで指導してきた。模倣する子にはしたくなかった。子どもが制作するプロセスが楽しめるような工作の課題を計画し、模倣したくても、模倣しない方が楽しいと感じ、根気や、美意識、達成感が育つようにしてきたつもりだ。できるだけ自由に制作させ、描き方を教えないが、あるときには子どもにとことんしっかり塗りこむように言うような時もある。永いこと来ているうちにそれは判ることだ。だから4年、6年も通う子もいた。だが、それだからと言って、子供たちがみんな美術大学やデザイン学校に行ったわけではないけれど。絵を描くことは究極、自分を持っていないと描けない。

色をたくさん使って描くのが上手な子や、線で描くのが好きな子、小さく細かく描くのが好きな子や、これらの反対が好きな子もいる。模倣は途中で真似をするものがなくなると何もなくなる。自分が好きな描き方をある日意識させると、次第にその子の描き方が個性となってくる。子どもは成長しながら自分の描き方や傾向を意識してそれは大人になっての仕事の進め方にも反映すると思う。少子化で我があとりえ・チビッコも生徒数が減り、不況にもおされて、これから迫力もなくなってくるかもしれないが、最後の一人まで指導していくつもりだ。

ところで、今日の内田先生の研究室の《学校選択制》の記事はいつもより難しい言葉も少なく、理解しやすく、書いてくださっています。あとりえのお母さんや、会社から帰ったお父さんも研究室のドアをノックしたらいかがですか。なぜかコメント欄は外してありますので、先生への質問はできませんが、昔の学生時代を思い出して自分で辞書を持って、勉強するのもいいのではないでしょうか?

さて、あとりえ・チビッコも自由競争の中で、選択制を自然と皆が選んでいる。情操教育としての立場はこのような時代には風前の灯になるのかもしれない。昨日自分が楽しいことを教えたように、今日も楽しいことを教えていきたい。いつか子供たちが大人になったときにキラキラと輝く宝石箱をのぞくように。

| | コメント (0)

2008/10/26

模倣でない絵を描くためへの試行と実践

Nokogiri_koutarouNokogiri_koutarou2子どもたちは人物が登場する絵を描かすと、大体において、よくある人の絵を描こうとする。それは人というよりもテレビの漫画やキャラクターを模倣したものになる。回りの影響もあるし、営々と築かれてきた、パターンだから仕方がないかもしれないが、それを何とか直さないと、10才以上の子の絵に、進歩はない。

目はキャンデーキャンデーのクルリとした目だったり、骨人間の描き方をして丸い目だったりする。描く課題が人物そのものに注目しない時はそれでもいいが、やはり子どもにとってそれではただの物まねの領域を出ない。だがそれを説明してもなかなか理解は難しい。

今回はそれをなんとかくぐりぬけた感じがする。何人かが理解したと思う。

上の2枚はコウタロウだ。私は子供たちに自分でノコギリを引かせ、ケヤキの木の棒を切らせた。怪我のないよう手順は注意深く。そして自分の切った木のカケラを持って、今度は私が木を切る様子を室内に入って見ながら描かした。そして描いていくうちに足や手がクニャクニャになっても気にしないでと言った。今日の絵はそのような状態になった子こそが良い制作をした子なのだ。

Nokogiri_kentarou

Nokogiri_kaho

Nokogiri_yui左はケンタロウとカホとユイだ。

特にカホはどこから始めて良いかわからないと言いながら、考えて描いていた。このたどたどしいが一部分一部分が模倣からの脱却だと思う。大げさだけどね。カホちゃんの今置かれている状況はあまり、干渉がないから良いのだと思う。ケンタロウはじいちゃんと一緒に木を切ったことを思い出しながら、絵を描くよりもノコギリで木を切ることをするのが楽しそうに描いた。ユイは手術の傷に障らないか心配だったが楽しそうに、でも考えて描いていた。

Nokogiri_momoko_2Nokogiri_shouki2Nokogiri_momoka左はモモコとショウキとモモカ。

モモコは今日は元気がなかったので、木を切らすのが大丈夫かと思ったが、始めに大きすぎる木を描いたのを直してから、また気を取り直して描いた。私がモデルさんになって、何度もポーズをとったのが功を奏して良い絵になった。

ショウキは課題は良い出来とは言いにくかったが、あとから木切れを鉛筆で描きたいと言って、初めての鉛筆デッサンをした。モモカはやはり絵を描いてから木切れをまわりに描いた。

今日の課題は子どもたちにも、指導している私にも多くの教示に富むことが分かった。これはもしかするとオーストリアの美術教育家フランツ・チイゼックの理論の実践と感じる。今までもそうだが、これからは意識してチイゼックの本を読んで指導していこう。私にとっての教科書なのです。 

| | コメント (0)

2008/10/19

ユイちゃん 久しぶりにあとりえに来た

夏休みに国立成育医療センターで肝臓の移植手術をし、2週間ほど前に退院したユイちゃんは、久しぶりにあとりえに来た。学校の授業は始めは2時間、次には4時間と普通の生活に戻しているようだ。

この日のあとりえの課題は《造花を描く》だったので、ユイちゃんの好きな赤や紫のガーベラをテーブルの席に置き、椅子に座って描くようにしておいた。久しぶりに来たので、ユイちゃんも嬉しそうで、絵を描くよりはこの席に座っていられることを楽しんでいたみたいだった。

始めにショウキ君が来た。いつだってニーッと笑う子だけど、いつもよりもっとニーッと笑った。はにかみながら、ユイちゃんが戻ったことを噛み締めていた。

次にカノンちゃんが来た。アーっと言って、嬉しそうに笑った。

次にアヤノちゃんが来た。ユイちゃんを見て、優しく嬉しそうに笑った。

次にモモコちゃんが来た。私が指導のために座っていた場所が、モモコを仰ぎ見る位置だった。ユイちゃんを見て、一瞬黙って嬉しそうに笑った。モモコちゃんの瞳にキラッとしたものが見えた。子どもだから、なんと言って良いのか分からないんだと思うけど、全員『ユイちゃん良かったね!』と言いたかったんだと私は感じた。この子たちは本当に良い子だと思った。

ユイちゃんは何気なく、手術の痕のチューブや切った痕を見せてくれた。逆T字だった。この特異な経験を見せることが、今のユイちゃんにとって、自分が乗り切った試練をはっきりさせることのようにも感じた。けれど、ショウキ君がそれを怖がって、目をふさいだことや、私が静止したことは取るに足りないことなのかもしれない。ユイちゃんが学校でもみんなが応援してくれているようなので、安心だ。術後のお父さんも会社に出られたと聞き、お母さんも元気そうなので、もう、山は越したんだと言える。

あとりえでは、ゆったりとして課題を仕上げさせ、楽しいあとりえを提供したい。それにしても、今回の写真を撮れなかった。後日載せることにしたい。

| | コメント (0)

2008/10/17

子どもたちは造花を描いた。造花ってけっこうきれい。

ZoukamikuZoukakentaZoukamarie 左からミク、ケンタ、マリエ。

いつもは花瓶に挿してある生の花を描くのだが、今日は造花の花を描かしてみた。

意識の中に生の花ではないということを感じさせて、でも、汚くない、でも匂わない。と言うことはなんなのかな?いつもだったら花瓶の中に水もある。ガラスのビンの模様が透けている。触るとカサッとする。

Zoukahinata_2Zoukamanami

左はヒナタとマナミ。

学校が秋休みで一番に来たマナミはゆったりと描いた。造花のグラデーションがはっきりとしているので、理解しやすかったようだ。弟のことを可愛がっているが、お菓子を隠すことが困ると言っている。Keicoco先生にも弟がいる。先生の弟だから、もうおじさんだけど、海外にいくと化粧品やキムチを買ってきてくれる、優しい弟だ。海外に絵本作家のお友だちがたくさんいて、この間もチェコのイワン・ガンチェフさんをあとりえに連れて行きたいと言っていた。その時は心の準備がなかったので断ったけど、今度来ていただこうおうかな?

ヒナタは妹のナミが風邪で休みなので寂しいという。確かに桜の葉も色づいて秋らしくなってきているから、いつも感じやすいヒナタは人一倍感じるのだろう。感じやすい子がこうして情操を絵にぶつけて表現して心の均等をとっている。この時期にこうして描くことができるのは幸せなこと。誰に感謝をしないといけないのかな? そう!パパとママ! 父ちゃんと母ちゃん!(そう言っていた飯島兄弟妹)。ハハとチチ!(そう言っていた小堀兄弟)。お母様とお父様!(そう言っていた朝比奈卓ちゃん)。

Zoukakaho

Zoukarisa_2

左はカホとリサ。2人とも絵を描くときに粗雑さが見られるのだが、だんだんと描きあげて行く姿勢が見られるようになった。特にカホは全体のバランスが良い。あいか先生がよそ見をしないようにと傍で優しく声がけをしていたのも良いのだと思う。だからといって不自由にはしなかったと思うが。その頃合いが難しい。永いこと来ているとその阿吽の呼吸をつかんで、次のステップへと向わせられる。リサもそうだ。荒っぽさの中に子どもらしい表現をしている。無くしたくない子どもっぽさとアートさを上手く育てていってあげたい。

希望が丘はデジカメを忘れたので、携帯のカメラで撮りましたが画面が粗くここの同じ画面には載せません。ごめんなさいね。こうして、子どもたちはイケアとヨネヤマプランテイシヨンの造花を描いた。最近の造花ってけっこうきれいです。

| | コメント (0)

2008/10/14

八ヶ岳の秋は鹿の鳴き声にのって@2008

Kawa081012_akiiro2 久しぶりに行った川上は山々に秋の色がつきはじめていた。ナナカマドの実も葉も赤くなり、ダンコウバイも黄を増して、もみじも赤や黄色に変わり始めていた。

遠くで鹿の鳴き声も秋らしく感じられ、ヒューンと鳴けば、百人一首のあの歌が思い出される。

「奥山にもみじ踏み分け鳴く鹿の声 聞くときぞ 秋はかなしき 」 猿丸大夫

子どもたちとお正月にそのゲームをするときには、その作者の後に(猿丸大夫、ハゲツルケ)と言って、絵を思い出せるようにと、取り易くしてあげたっけ。遠い昔もあっという間に現実になる。エッツ誰のことですか。

山小屋に行ったときの健康維持のための散歩を芳州さんとココとした。このところ、暗いニュースが多い。株や景気というよりは、同世代の人の死だ。以前「Bucket list」について書いたがそういうことを意識せざるをえない年令になっている。私は最近シミも取ってかなり若返ったが、現実は厳しい年令になっているらしいのだ。私たちはそれを払拭するほどの笑いと親父ギャグで、高原の湖の湖面を波立たせてきた。あまりにいろいろ話して、よく消化して、もう忘れた。持って行ったオムスビもコロリンとしそうだった。

2日間の滞在だったので、我がクラインガルテンの作物の整理に追われた。ところがなんと、2日目の朝、少なくなったルッコラを朝食のサラダ用に採りに行ってビックリ! 偶蹄目の足跡が無数にある。前日雑草が生い茂っていたが採らなかったのが幸いしていた。その雑草を食べていた。鹿は首を低くするのが辛いんだ。ところでいつ来たのだろう! ココちゃん! いつもささみをあげているんだから、教えなさいよ!と言ったって無理。

また芳州さんと畑の回りのフェンスの針金を高くする。そういえば、庭側の花壇の菊が花を摘まれていたし、畑のまわりに絡み付いているカボチャの茎が齧られていた。やはり来ているんだ! 鹿は! 帰り間際の夕暮れに、青々とした春菊や、緑濃いター菜、細い大根、きっこの日記にも出ていた紫蘇、イタリアンパセリなどを収穫する。遠くで鹿が鳴いている。ヒューン、ヒューン。

私は赤カブを見て摘む。作物を採った後に土を鍬で寄せる。隣のログハウスの軒にできたスズメバチが収穫した青菜の葉の上の青虫を食べに飛び交っている。もうすぐ来る冬を感じている。私もスズメバチを気にせず、ルッコラの根をそっと引き抜く。横浜のマンションのベランダに移植するからだ。また、春菊の根をそっと引き抜く。それも、移植したい。地面を見続けて腰が痛い。腰を伸ばし、立ち上がりながら夕日を見る。美しい夕日だ。だから長野が好きなんだ。また近くで鹿が鳴く。ヒューン、ヒューン。ヒューン、ヒューン!

私はもう猿丸大夫の句は思い浮かばない。小鹿物語の母さんだ。早く鹿を撃ちなさい!鹿がもっとそばで鳴いた。ヒューン、ヒューン もう、怖い、なんだか混乱してきた!シェ-ン、カンバーック! ハイヨー、シルバー! インデイアンうそ言わない! バキュン、バキューン

Kawa081012_akiiro「恵子!もう帰る仕度しなさい!」 芳州ちゃんの声に我に返ったKeicocoだったのです。 THE ENDもしくはFINです。

| | コメント (0)

2008/10/12

長崎は今日も平和だった

Nagasaki_71長崎に行って来た。以前からいろいろな方に誘われていたのだが、今回は時間ができたので、長崎くんちに合わせ行って来た。

長崎くんちはテレビで細かいところまで知ることができた。今年は7年に1度の大祭のようで、檀尻という山車が神社の境内で観客が注目する中、回転させる。 『もってこーい!』 の掛け声に応えて力いっぱい動かす。神社境内に満ち、満ちる両者の引き合うコミュニケーションがなんとも言えず良い! それが桟敷席でなく、テレビの画面でも理解できたのがすばらしかった。

Nagasaki_65 私たちの泊まった ホテルは長崎新地中華街の中で、結果的に行動しやすかった。長崎名門校、活水女子大学への坂道は横浜のフェリス女子大学への道とオーバーラップして感じた。まわりの木々のソテツなどの植生がやはり南の国を感じさせた。かの有名なオランダ坂を通ると銀木犀が薫っていた。

Nagasaki_61_2

東山手住宅郡の中に紛れるようにベルハウスという老人ホームがあった。窓越しにお年寄りが歩いていた。クリスマスの飾りのようなコラージュが貼ってあり、目黒の母を思い出した。孤独という字が湧き上がってきた。年を取るにつれ湧き上がる孤独感を何かに置き換えてはならないと思う。その時忘れたり、紛らわす分だけ後から押し寄せる。だからといって深刻になってどうする。どうする。心の中で自問自答。私なりの答えは出ているけれど。

Nagasaki_46

『 春真昼 ここの港に寄りもせず 岬を過ぎて ゆく船のあり 』 と、短冊に書いてあった。作者は誰か書いてあったようだが、分からない。

東山手地球館では日替わりで世界の家庭料理が食べられた。この日はタイカレーだった。そばで英会話のグループが先生を囲んで楽しそうに話していた。宮崎駿のアニメ映画の話題だった。そこからは私は芳州と別行動で、原爆資料館にいった。路面電車が4系統あり、乗り換えするとき切符を貰うと100円で市内を動き回れる。車が混雑する時は路面電車の方がタクシーよりも動きが早いようだった。

Nagasaki_49_2 原爆資料館内は撮影禁止のためそこに入るらせん階段を下りるときに撮った。まるでゼロ地点に下りていくように造られていた。入ってすぐに、爆心地から800メートルの民家の柱時計があり、時刻は11時2分を記していた。

  • 原爆を落とすまでの過程を記してあった。照明を落とした資料館の中で、気が付く事をメモした。多少の間違いがあるかもしれない。
  • 1944年 ルーズベルト、チャーチルが日本と決める。
  • 1945年4月 東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、    下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保を候補地とする。
  • 1945年7月 ニューメキシコで実験
  •     7月20日 パンプキン爆弾を広島、小倉、京都、新潟で実施
  •       23日 広島、小倉、新潟が目標となる
  •       24日 長崎が加えられる
  •       25日 トルーマン指令を承認
  •       26日 ポツダム宣言
  •              31日 テニアン島で原爆組み立て完了、連合軍捕虜収容所の存在連絡する  が目的変更無しとなる。
  •     8月6日 1:45 エノラゲイが原爆を搭載してテニアンを出発
  •          8:15 広島に原爆を落とす
  •       9日 2:49 原爆搭載機ボックスカーがテニアン離陸。焼夷弾の煙のため小倉に落とせず3回旋回し、長崎に変更
  •       9日 10:58 長崎上空も雲のため視界不良、燃料不足で帰還検討
  •       9日 11:02 一瞬の雲の切れ間に原爆投下

原爆が悲惨なことは分かっているが、こうして落とされることになったのを忘れてはいけない。戦争に反対しなさい!とトキワ松学園の笹尾菊枝先生は世界史の授業中に話された。そして、子どもを育てるお母さんはいつでも戦争に反対をしないといけないとも。戦争っていつ始まるの? 誰がその時を教えてくれるの?

遡って行けば、長崎にとってこの一瞬の雲の切れ間がなければよかったのに。広島に落とされたときに日本政府がすぐ降参すればよかったのに。原子爆弾は造られなければ良かったのに。戦争を始めなければよかったのに。

ところでこの長崎旅行中に3人の日本人がノーベル化学賞を取ったというニュースが報じられた。それも忘れられない思い出になった。そして、その夜の長崎くんちの庭先まわりでは、芸者さんの舞や邦楽が歌われ、三味線が流れ、太鼓も響き、だんじりも繰り出し、町中が賑わった。そこで私は 『長崎は今日も平和だった』 と感じた。Nagasaki_94

写真は上から1.長崎グラバー亭から平和公園方面を見て、2.大浦天主堂、3.オランダ坂通り、4.ベルハウス、5.原爆資料館、6.庭先まわりをする芸者さんのご挨拶の腰の角度が美しかった。

  

           

| | コメント (0)

2008/10/10

明日から『あとりえ・チビッコ』は五年目にはいります。

Hanataba081010 『あとりえ・チビッコ』4周年おめでとう!自分で自分におめでとう!

時間がなかったので2年前の花束をペイントでチョコッと塗り替えました。これからも、現実に負けずに、人生を楽しみ、子供たちのためにアイデアを搾り出していきたいです。

それからもう一つ、ゆいちゃんが退院し、今週から学校に2時間だけ行けるようになったそうです。あとりえにも、来週から来れるそうです。重ねておめでとう!

| | コメント (2)

2008/10/05

あとりえ・チビッコもうすぐ四周年!

もうすぐあとりえ・チビッコはブログ開設をして四周年目になる。2004年10月4日から書き始め、10月10日にスタートしている。まだ現在アクセス数も5万に満たない弱小ブログだけど、子どもたちのためにがんばりたいKEICOCO先生だ。

前にも言っているが、ブログの始めは室井佑月さんのブログと庄内拓明さんの『知のヴァリトゥード』と『うるわしのブルターニュ』に憧れて始めた。常に基本はその3人がいつもある。そしてそれから派生し、いろいろな方のブログがお気に入りに入っている。

そして、『あとりえ・チビッコ』が看板になっているように、子供たちの造形絵画教室での指導と子どもの作品を展示することが主な目的だ。そして私のアイデンティティを記すためと、同じような考えを持って指導していく人たちが増えることで、幸せな子どもが一人でも増えると良いと思い発表をしている。

本当は、この子がこの絵を描いたのですよと、写真も作品も一緒に載せたいが、ネットの常識が、阻むものがある。

巣立った子供たちがときどき何らかの情報をもたらしてくれることがとてもうれしい。

今もう少しキチンとまとめたことを書きたいのだが時間オーバー。何かと忙しい。もしかすると旅歌ノートに季節の歌が更新できるかもしれません。俳句も和歌も難しいけど。不勉強ではいくら日本人でも無理かもしれない。

| | コメント (0)

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »