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2010年7月の記事

2010/07/27

母の祈りに似て・健太と健太郎

子供たちに絵や工作の指導をして、今年の夏で何年が経ったのだろうと、指を出して数えFrance_5g る。夏から始めたのでいつも7月になると数えてしまう。確か次女が2歳、長女が4歳の時だ。そう私が29歳の時から始めたのだから、34年が経った。

暑い夏の横浜・希望が丘のマンションの部屋から始めた。次女が飽きてしまわないように氷かきとコーヒーミルを用意して始めた。そのうちに子供たちの友だちが教えてほしいと入り、娘たちは中高受験も経て、美大へと進んだ。その間に教えた子供たちは何人になるのだろう。

20年ぐらい前には、指導者と言うのは自分の指導の成果や結果を見たいから長生きしないといけないと思っていた。そして子供の側に沿った絵画指導、子供たちを喜ばせる工作、子供たちの心を絵を通じて健康にさせられればという思いでここまで来た。今自分の長生き論には少し変更部分が出てきたけれど。

先週で健太郎と健太が あとりえ・チビッコをやめた。厳密には明日なのだけど。津崎家とはかなり長いお付き合いだった。姉の江美、そして健太と続いたからだ。健太郎は元々の家がある和歌山に戻る。

私は誰にでもそうであるが本人の個性を殺さぬように、自由に描かせていた。写実である静物画の時には訂正や軌道修正が必要なデッサンもあったのだけど、自分で気づくまで待とうと、意識的にほっておいたことが多い。健太郎とは思っていたより早い別れが来てしまった。そこで私が少し戸惑っている。

健太はドーンとした主張があって、面白い。躊躇しない判断力の早さがある。スケートを通じて培われたものかもしれない。繊細さは少ないから、もしかすると対照的な二人だったのかもしれない。健太は絵だけではなく、全体を見る社会性が人一倍あると思う。中心になって他の子たちに光を与えていく存在感があった。そういう観点から二人はどんな絵を描くだろうといろいろな課題を出してきた。ケンタとケンタロウは、作品の個性が光っていた。彼ら二人がいなくなるのは寂しいけれど、新しく入ったタケシやレイナ、前からいる個性の強い子どもたちがまた独特な世界を繰り広げそうでもあるから、心配はないでしょう。

私はいつでも、子供たちの幸せを祈っています。今年のフランス旅行の際のプロバンの小さな教会に入った時のマリア像がこの子供たちへの≪さようなら≫の気持ちを表す良い写真だと思うので、母の祈りのように載せておきます。健太と健太郎がいつも元気でいられますように。世の中の悪から救って下さいますように。お母さん、そしてお父さん、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に私も、彼らの成長を祈っています。

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2010/07/26

川越 ≪暮らしの中の旅・3≫

Kawagoe_a 昨日は川越に行った。親戚が家の近所でお祭りがあると言うので行ったのだが、暑さ厳しき折柄、川越だけの観光をして帰ってきた。春先や秋口であったならもっと風情が違っていたであろうが、炎天下の夏の観光は今日はここまでと言う我慢も必要だ。

イタリアン・レストランというか、ビールを自家製造していて、なおかつコエドビールを置いているトラットリアに行った。店の名は≪小麦市場≫。働くお嬢さんたちが気持ちの良い接客をするのでいつでも行きたくなる店だと聞いた。お嬢さんは本当の若いお嬢さんだ。Kawagoe_b

私も家庭では食事の作り手なので、こういう時はめったに食べられない組み合わせを選ぶことにしている。かぼちゃと鶏挽肉のクリームパスタ、オレンジ風味。食べ終わるまで≪オレンジ風味≫が飽きない味だった。写真は芳州さんの選んだピザ。

Kawagoe_c レストランを後にして前車のガラスに入道雲が描かれたようにモクモクと出始めて、オオ、ゴロピカドンがくるぞーとエキサイトした割には何も起こらなかった。そういう時には少しだけ光ってほしいし、ゴロッとも鳴ってほしい。夏の風物詩程度にお湿りは必要だ。最近の気象は極端から極端に走りすぎるのが困る。でも私たちの帰りまでは何とかお天気はもって、雷嫌いなココは室内で無事でいたようだ。また秋になったら川越に行って良い写真を撮ってみたい。

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2010/07/18

梅雨明けとハウスキーピング

Yokohama_b 梅雨明けはきっと今日だ。(追記:昨日のニュースをしっかり聞いてなかったようで、梅雨明けは昨日17日だったのですね、ごめんなさい。)昨日は自宅の窓掃除とカーテンの洗濯をした。隣のアトリエの家の分も含めると窓8枚、レースカーテン8枚、厚手カーテン6枚の洗濯だ。窓ガラスの掃除は水のシャワーで階下の家に飛び散らぬよう気をつけながら、一気に屈伸運動をしながら片づける。ベランダの枯葉などもあったりするので、一昨日からベランダの掃除をしておき、一気に昨日の作業となる。

この作業を男性でもする人はいるだろうが、ほとんどは女性の仕事になっているのではないか。分業の観点からすれば、そのような風潮が私たちの世代にはある。私にはまだ、自分の極めたい仕事もあるのだが、こうしたハウスキーピングの仕事も誰かに代わってもらうことは出来ないでいる。時間に対するジレンマも感じることもあり、こうした仕事の前後はヒステリックにもなるが結局は、そのあくる日は綺麗になった部屋と、外の景色が気持ちよく、窓から入る空気が清潔で、満足感はなにものにも代えられないと思う。

Yokohama_014 昨夜は次女とその夫君と私たちと中華街の菜香新館で暑気払い。食後に、腹ごなしのために山下公園に行った。今日だったら花火大会があるけれど。 

今朝は夫を新横浜まで送っていった。車で流れていたインターFMの聴きついでに家に戻ってもかけている。ハワイアンが季節感をだしている。なんだか大瀧詠一も聞きたくなった。ナイアガラ―! 聞こうか!ベランダの緑はハウスキーピングの成果だ。南天もオリヅルランもゴールドクレストもみんな仲良し!

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2010/07/10

「手」・フランス彫刻にオマージュを込めて

France_5b

にぎりあう手、からみあう手が 愛してると言っている

ささえる手、ひきよせる手が 愛しなさいと言っている

あわせる手を見つめていたのは 愛を知らない時

あわせる手を再び見つめているのは今の自分

長い時間は生身の手を斯くも老いさせている

手の向こうにある長い時間と

手のこちらに続く未知の時間が

血脈となって音を立てて流れている

いましばらくその音を聞いていよう

France_5cFrance_5dFrance_5e「手」 豊田惠子

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2010/07/05

梅干をつけるところを見て描く・生活画

今回は子供たちに梅干をつける順を教えて、その場面の中の好きなところを描かした。平素、日本の子供の絵には生活感がないのは、生活を見る時間がないからだと思っている。私たちが小さい時には、一緒にお買い物に付いて行ったり、もう少しゆっくりとした時間の流れがあったと思う。それでも最近では食育の観点から、梅干作りを子供たちにさせている小学校もあるようだ。ちょうど、私がこの課題をした、先週水曜日に横浜市菊名小学校では梅干作りをしたと、ナミちゃんから聞いた。梅干は日本の代表的な食物であり、ここ、横浜市の菊名や大倉山は梅が良く取れる。しっかり梅干作りを覚えてほしい。まだ子供だから、分量や細かいところは忘れてもいいから、なんとなく作った様子を覚えていればいいのだ。私の後姿だったり、おばあちゃんの後姿だったりしていいから。酸っぱい梅干は日本の味だから。

Umebosi_hinata

Umebosi_kentaUmebosi_kentarou

            

            

            

Umebosi_manamiUmebosi_momokaUmebosi_nami

            

            

Umebosi_reinaUmebosi_rikoUmebosi_risa            

            

            

Umebosi_tomoyaUmebosi_takesi上段左からヒナタ、ケンタ、ケンタロウ。2段目、マナミ、モモカ、ナミ。3段目、レイナ、リコ、リサ。4段目トモヤ、タケシ。             

                             今回は3つの場面にして、手順を説明した。紫蘇をもんでに梅酢を入れるときれいなピンク色になるところを意識して見せて指導した。ちょっとだけ手順は違っているかもしれない。塩を使って説明しながらデジカメを撮ったりしていたので、手がぶれて満足な写真が少ないが、一応載せておく。また先週風邪で休んだリホちゃんを今日呼んでいたのにうっかり出かけていて、指導するのを忘れてしまい、本当にごめんなさい。

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2010/07/04

Paris & Provins (Ile de France)の旅・Ⅳ

≪プロバンで出会った子供たち≫

パリの周りにはイル・ド・フランスという観光都市がある。その中の一つに中世の城壁が残っているプロバンというところがある。南フランスのプロバンスとは違う。パリの東駅から1時間10分ほどで着く。

France_4h パリから20分も列車に乗ると付近は菜の花や大麦、小麦のおおらかな畑が広がり始める。私たちが泊るホテルと思っていたのはいわゆるシャンブルドットと言われる部屋数が少ない、オーナーの家の部屋をホテルとして提供している場所だった。のちに知ったことではあったが、夫妻は歯科医で娘は東洋に結婚して住み、息子は二人まだ独身と言う、そして奥さんが趣味で絵を描いていて、庭にはあとりえがあり、サクランボがFrance_4g 実り、鳥たちが庭に憩い、大変裕福なおうちであった。私は山盛りのサクランボをいただいて、お礼の言葉を言ううち、私は子供に絵を教えていると話した。今まで言ったドイツのいろいろな都市の説明をした。英語が通じたけれど、私の語学力がもっとあれば、もっと楽しく過ごせたと感じた。

町の城壁に沿って歩き、街並みを見ることは楽しかった。坂や石畳を写生をしていて楽しくなった。中世の劇を城壁を舞台の後方に置いて演じるのをFrance_4f 見た。近辺の小学校の生徒たちが遠足に来ていた。私の隣には5歳くらいの子供がママと見ていて、真剣になって怖がっていた。子供たちや外国人にも分かるような筋立てになっていて面白かった。

塔の写生をしていると男の子が何してるの、と聞くので、スケッチブックを見せてあげると、そばに来た。そこは4人も来たら、転がり落ちそうな小山になっているところだったが、遠足の子供が次から次へと見に来て、私は危ないので、さあみんな下に降りてと促した。そして塔の見学を待つ椅子の所で、日本の折り紙の鶴を折ってあげた。すると一人の子が「オリガーミ!」と言って、知っていると言った。そこで3回ほど折ってあげるうち子供たちは私に興味津々になってしまい、15、6人の子供たちに取り囲まれてしまった。

France_4bFrance_4d自分の名前を言う子、マイケルジャクソン知ってるか?あなた何て名前?とかが出てきたと思う。多分彼らはフランス語で聴いてきたのだから。私はまるで百済の人と話す聖徳太子のように、一度に3人の子の話を聴いていた。凄いコミュニケーションだった。私はジャパンは日本と漢字で書いて、日は丸に点から始まって太陽だと象形文字を説明してあげた。子供たちは興味津々、また私の名前はケイコと発音して、漢字で恵子と書いた。子の字は子供と言う字だと絵を描いて教えた。

France_4c鶴を折る間、子供たちががぎゅうぎゅうくっ付いてくるので、子供たちに「スールポン、ダビニョン、ロンニ、パス、ロンニ、ダンス、」と歌ってあげた。一人だけ分かってついて来てくれたが、あまり続かなかったのは私のフランス語がひどかったからか、それともその歌は日本で言ったら「オドンマ、ボンギリボンギリ、ボンカラサキア、オラント」みたいな、もう子供が歌わない歌なのだろうかと今になって思う。

また、他の歌も歌った。「スユーラシエルド、パリ、モナムールシャンソン、ウーウー」。あの、笑わないでください。凄い一生懸命だったんですから。子供たちは二人ぐらい大人っぽく歌う子がいた。ちらっと見たら、シャンソン歌手みたいだった。そうして恵子ちゃんは小さい時にお母さんに教えてもらう折り紙の鶴が折れないと、泣き出してくしゃくしゃに丸めていた子が、青い目のフランスの子どもたちに折り紙を教えていたのです。

France_4a アッと気が着いた時には移動の時間のようだったので、「あなたたちの先生の言うこと聞きなさい!」なんて言って。でも先生たちからはメルシーって言われていたと思う。子供たちを興奮させてしまったけど先生たちも私には好意を持ってくれたと感じた。違うかな!変なおばさんと思われたかな? 子供たちと一緒の写真を取ってくれた。

まあ最後に私もやっちゃたんだけど、「マイケルジャクソンを知っている?」と聞いていた子が、別れ際に私にムーンウォークをして、最後に手を前に合わせたので、私も、クルット廻ってやってしまった。そこを男の先生がにこっと笑って見たのです。しまった!完全変なおばさんになったかも。

その時芳州先生はその塔に登って写真を撮っていた。ホテルにFrance_4e 戻ってその話をすると、「恵子が映っているかもしれないね」 ズームしていくと、居ました、居ました。一丸となって黒く固まっていた。ところで一人、フランスの子供の中に日本のカホちゃんに似た子がいた。どの子と言わなくても、あとりえ・チビッコの子は分かりますね! 一番下の写真の子は別の場所のバラ園で出会った子でIMAGINちゃんと言う子だった。

プロバンで出会った子供たちはどの子も可愛く、元気だった。

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2010/07/02

Paris & Provins(Ile de France)の旅・Ⅲ

≪美術館と砂糖と地下鉄≫

France_3a_2 ルーブルでは、日本語の説明をイヤホーンで聴きながら歩いていた。耳元から聞こえる声の女性がこの春突然亡くなった久米佳子さんの声に似ていた。始めて聞いた時、声の甘い響きがとてもよく似ていたので、胸がドキッとした。15年前、ドイツ旅行中にフランスにいる彼女に電話して、びっくりさせたことがあった。こうして私がフランスに行ったことを、もう彼女とは話すことがが出来ない。彼女はまわりの友人にフランス語の発音は完璧よと言っていたと聞いた。

ルーブル美術館では作品よりは作品鑑賞をしている人の中に一人、とても美しい人がいた。黒人(ブラックパーソン)の女性で、朱に近い赤のドレスを着ていた。どうしようかと考えて、追いかけて写真を撮りたかったが、人混みがしだいに逆流してきて見失ってしまい撮れなかった。あまりの混雑に、モナリザを見に行くこともしたくなくなった。それよりは紅いドレスの女性こそが現代のモナリザではないかと思った。ドレスや体の線の美しさ、作品を見る目線、同行していた男性との何気ない仕草が大変美しかった。これが何故か、と思うのだが、黒いから美しいのだと気付いた。「Black is beautiful」は黒人民権運動の標語だが、私もそう思う。また違う意味合いがあるのだが。日本に戻りたまたま、病院で隣り合った黒人の赤ちゃんを連れている日本女性に聞くと、ご主人はセネガル出身でフランス人とのこと、セネガルはパリダカールラリーのダカールが首都だ。

日本に戻ってからウィキぺデイアで調べるとフランスはたくさんの植民地を持っていた。それに関しては生活上のことでうなずけることがあった。私たちは旅先でも多く野菜を採りたいと、スーパーに行き、パック入りの野菜を買い、塩とレモンを買った。その時塩のそばにフランスの砂糖が売っていた。日本で買うと結構な値段の無漂白のブロックの砂糖が大変安かったと記憶している。戻ってから植民地を調べると、納得できた。砂糖を生産するカリブ海のハイチなどが含まれている。我が家では時々、輸入食品店でオウムの絵の描いてある箱の砂糖を買うのだがそれも確かフランス産だ。それと時々食するジャムの中にはフランス産が多い。このようなことから納得できる。生活上の疑問を調べてみるとそれからそれへといろいろ広がり、社会科も面白くなる。

ルーブル美術館では≪ルーブル美術館の秘密≫をビデオで見ていたのも鑑賞を親しくさせ ることが出来た。特に彫刻の部屋を垣間見た時、まだまだあの作品の欠片の群を合致させるのに費やす時間を考えると、とてつもないことだと感じた。そのあと、ルーブル近くの喫茶店でコーヒーとケーキを食べた。大変おいしかった。もしかすると有名なお店かもしれなかった。そのあと、もう一つ出来事があった。

France_3f_2 地下鉄を降りていくとそこには切符販売機がなかっ たので一瞬どうしようかと考えていると、男の人が近づいてきて、切符をあげるというが「ノー」と言って別の入り口まで歩いて行くと、後からその人が着いて来てまた、窓口で買おうとすると1,6×2=3.2なのを3€で良いと言う、ちょうど小銭を3€出しかけだったので渡して切符を貰うと、どこからか少年が出てきて大きな声で「マニ!マニー!」と言ってきた。体に触るように着いてきたので、大きな声で「ノ―!」と言ってその場を振り切った。あとで振り向くと男の人がいいからいいからと男の子を慰めているようだった。そこで、なんだ、結託していたのかと気付いた。そして、別に0.2を渡しても良かったんだと気付いた。その日のその時間はまだ学校がある時間だと思うから、学校に行かずにそうした仕事を少年がしていたのだと気付いた。私たちはパリの地下鉄を少しでも労を多くして乗ろうと考えていた。13日の間に切符の買い方はうまくなった。そこで起きることを楽しんだ。時には日本人が説明してくれたし、またドイツ人の家族が買うのに悪戦苦闘していたのも見た。10枚束で買うより、一回一回楽しんで切符を買った。その中にそういう出来事もあったのだ。

また多くの若者がその改札口を切符を通さずすり抜けたり乗り越えたりしてスリルを楽しんでいた。日本でも暴走族が高速の出口を強行突破するのを見たことがあったが、東横線の大倉山駅をジャンプしてすり抜ける若者は見たことがない。私たちがパリの中心部の見学をしていた時は観光バスから多くのパトカーや白バイ(フランスでは違う名称だろうが)とすれ違った、ホテルに戻って見たテレビには日本で見るBSのフランス2の司会者がプーチン首相と対談していたので彼の警護のためだったのかとも推量した。

France_3b_2 結局ルーブルではあまりにたくさんの作品群で戦意喪失気味になった。かえってロダン美術館やギュスタブモロー美術館、カルティエ財団美術館の方が落ち着いて鑑賞出来た。 カルテイエ財団美術館では、ビート北野武のFrance_3d_2 France_3e_2 展覧会が行われていて、子供たちに音を聞かせてそれをどう感じるかを絵にするという試みをしていた。私も子供の順番に並んで作品を描いた。

ギュスタブモロー美術館はフランスの古い洋館であり、そこにはいるだけで、歴史の匂いを感じることが出来た。そのあと坂道を北へ北へと歩いて行くとムーランルージュがあって、化粧の濃い人がいっぱいいた。もっときつい坂道を上がっていくと、サクレクール聖堂があって、だれもがパリに行ったFrance_3c_2 証拠のように写真を撮る、階段のスポットがある。実は私もそこで写真を撮ってもらいたかった。ミーハーな願望だったが、このたび実現された。サクレクール聖堂は太陽が強くてくらくらした。坂を一気に下りてから地下鉄に乗る前に コーラを飲んだ。

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2010/07/01

Paris & Province(Il de France)の旅・Ⅱ

≪旅の計画≫

France_2a パリ5泊プロヴァン4泊再びパリ4泊は安全と体力を懸念しての旅の予定だった。ドイツには10回旅行し、アスパラガスと多種類のパンの朝食が頭の片隅にあったが、今回の旅の計画はパリとイルドフランスにした。計画を練る間にはアイスランドの火山の噴火が起こり、私の盛り上がっていた気持ちが萎えたりもして、「行く前にこんなんでどうするのよ!」と考え直し、気持ちを静め、冷静に計画を立て、荷物は持ちすぎないようにし、あとは向こうに着いてから考えようと成田に向かった。

ルフトハンザが夫のお気に入りなのだが、行きは共同便のANAで、帰りの便はルフトハンザFrance_2c_2 航空となった。私には12時間の飛行時間のお楽しみは映画のメニューを考えること。どれを見るかを食事と食事の間に予定して置く。このような計画を立てている自分はまさに父のDNAが出ている。前席のシートのテレビ画面では映画を自分で自由に観ることができる。始めに≪マンマ・ミーア≫(メリル・ストリープ主演)を鑑賞。ABBAの曲をエコノミーの席で体を揺らして聴く。その後、≪A Beautiful Mind≫(ラッセル・クロウ)を観る。

≪マンマ・ミーア≫のあらすじは娘の結婚式に、昔の3人のボーイフレンドが登場し、だれが本当の父親かをミュージカル仕立てを織り込みながらつきとめていくというもの。だが私はその本題は≪自分探し≫と気付いた。私も自分探しをしている。ある時は自分探しの旅に出るためにその場から逃げるかもしれない。ある時は何かを犠牲にするかもしれない。3人のボーイフレンドの中で本当の父親は誰かと言うことになる。登場人物たちの過去が若くて好きなことをして生きていた。「Thank you for the muzic giving in to me」 私の人生でも、あの時代に戻れば虹色の絵の具をセーヌ川に流した位のホンワカシタことはあった。「そして私はこれからフランスに行くんだ!」観終ってから力が湧いてきた。

≪A Beautiful Mind≫はラッセル・クロウがジョン・ナッシュという数学研究者を興味深く演じている。観終ると、深い感動を覚える。とだけ言っておこう。あとは何も言えない。言わない。ラッセル・クロウは今まであまり魅力を感じなかったので、グラジュエイタ―しか観ていなかったが、これから考えを変えよう。今回は2本の映画を見たのであっという間の飛行時間だった。こうして機内で映画を見る時間は多分私にとっては至上の喜びなのです。

12時間飛んでドイツのフランクフルトに着き、約2時間の間に入国検査、そして別の便への移動、今度はルフトハンザカラーの飛行機でパリに着いた。飛行機を出てから入国検査や荷物の受け取り、タクシー乗り場までシュミレーションをしていた通りに出来た。感動は静かに心の中に納めて移動していた。私たちの周りではスリに合ったというご注意をして下さる方が多く、私たちは旅の初めはかなり委縮していた。

France_2b怪盗ルパンやルパン3世の腕前をじっくり見たいとは思わなかったが、見ることもあり得ると考えていた。そこでエミールの冒険のようにお金は胸ポケットにクリップで留めておこうかと考えたけどけど、それはあまりに子供っぽいと考え直し、3か所に分けて入れていた。そこで始めの2日間はパリのオープンバスツアーに乗って主要なところに行くことにした。それはどこで乗ってもどこで降りても2日間使うことが出来るという観光用のパスだ。観光バスで2日間乗るうちにパリの地図がなんとなく分かってきた。

パリの空の下、恵子と芳州が添乗員だった。ボンジュールしか言わなかったような気がするが、ボンジュールっておはようもこんにちはにも使うのよね。私は時々その事が頭に浮かんで一語さえ滑らかじゃなかった。

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