« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »

2012年10月の記事

2012/10/30

小さな美術展 第15回かまぼこ板絵国際コンクールについて

Suzuhiro_1 昨日小田原城内の二宮神社、報徳会館で『小さな美術展 第15回かまぼこ板絵国際コンクール』の表彰式があった。
応募総数が5661(ジュニア4162、一般1499)入選はジュニア、一般で金1名、銀1名、銅10名づつ。特別賞は久里洋二賞(画家)、谷川晃一賞(画家、評論家)、林紀一郎賞(画家)、高橋明也賞(池田20世紀美術館館長)、山田五郎賞(タレント)、佐藤雅子(ギャラリー上田館長)、また小田原市関係の賞、箱根関係、小田急関係、美術館関係と続き、23もの賞がジュニアと一般に設定されているので200人近い受賞者が集まった。それに同伴者が居るので何人になったのだろう。Suzuhiro3

私は久里洋二賞をいただいた。作品は蒲鉾板を2枚横につなげ、そこに木の年輪を描いた。そしてその年に起きた出来事を文字で書いた。それは虹色の年輪であるが題名は「幸福な年輪」だ。中心円は私の誕生で赤から始まり、5才で幼稚園、6才で小学校入学、10才で腎炎、12才でトキワ松中学、15才でトキワ松高校18才で女子美術短大、20才で社会人、23才で結婚、25才で長女出産、27才で次女出産と29才であとりえチビッコ開始と続き、子供たちの成長も書き、夫の仕事の変遷も書いた。この場合プライバシーは無いと考え、発表した。父や義母や犬の死も書いた。自分の人生が可視化出来て、すっきりしうれしくなった。展覧会に作品を出してから、同じ位の太さの木で、また2枚描いてみた。なんとなく娘たちへの遺言と思えなくもない作品だ。蒲鉾板の脇には小さく芽を伸ばしたが切られてしまった若い日の心変わりなども書きこんで楽しかった。

作品展の受賞では面白いご褒美を久里洋二先生から頂いた。おしゃべりする貯金箱だ。一日の中で時々呟く。100円を入れるたびに口や目が動きおしゃべりをし、合計金額を言う。これからの一日を有効に使えそうだ。ありがとう久里先生。そしてその表彰式の後のパーテイーは中華を中心とした大変美味しい御馳走だった。車では行かなかったので乾杯のビールも飲めて、そばにいる受賞した子どもたちやご両親たちとお酒を薦めあって和気あいあいとした時間を過ごした。小田原城の一角にある会場なのでお庭もすばらしかった。以前私はメセナについて書いている。

「三菱アジアの子ども絵日記フェスタとメセナについて」≪私は年に1、2回子供の絵を公募展に出している。またそれを心がけている。今まで、鈴廣蒲鉾主催のかまぼこ板絵コンクールやパンの会社の公募などにだした。公募展は以前はもっとたくさんあったと思うが、最近では少なくなった。蒲鉾展では表彰式で素敵なパーテイ-に招待される。三菱の絵日記フェスティバルは以前、あとりえの子、森屋萌ちゃんが入選し、日本一のグランプリを取っている。・・・・・・・・・・・・・さて、このように芸術、文化を支援していくことをメセナと言う。古代ローマ時代皇帝アウグスツスに仕えた高官マエケナスが詩人や芸術家を手厚く庇護したことから、後世その名をとって、「芸術文化を庇護支援すること」をメセナというようになったのが起源であるそうだ。日本では1990年に企業メセナ協議会が発足している。(はてなダイアリーより)≫

『鈴廣かまぼこ』では蒲鉾板を使っての作品を公募し、芸術家に貢献し、入賞した人たちにご褒美を用意し、他の蒲鉾会社、小田原、箱根の観光にきっと貢献していると思う。この仕事をやり始めたのは現会長の鈴木智恵子氏だ。初めからこの仕事をしていた訳ではなく夫である社長がなくなってから就任している。今回でお会いしたのは2回目になるが、偉い人だと尊敬している。

ところであとりえチビッコOBOGも保護者の方も作品の公募に応募してはどうだろう。みんなで集まって≪がんばって賞をとってパーテイーに行きましょう≫なんていいかも。そしていくら鈴廣蒲鉾が太っ腹だとしても、練習はほかのマークの板でも本番は鈴廣蒲鉾の板でメセナの精神に応えて出展しよう。

私たちは家に戻ってから相棒と一緒にお土産の蒲鉾や伊達巻を食べながら作品とメセナについての話が盛り上がった。またあらためて小田原や箱根に行きたい。早春の箱根になるだろうか。

| | コメント (1)

2012/10/28

キーハンガーを作る

今回はキーハンガーを作った。パインの木材を私がカットしてL字のピンとチェーンをカスタマイズさせて作った。私の出身が女子美術短大造形科生活美術教室だったので、絵を描いたり工作を作る事の他に暮らしの役に立つことも大切と考えている。子どもたちが大人になった時に、とくに女の子が男の人にすべての大工仕事を頼むようにはならないで、自分でもできるようにとささやかに教室で、指導している。キリや金づちを使う時は危険もあるので、気を付けている。
Kousaku_asumi_2Kousaku_manamiKousaku_riho

左からアスミ、マナミ、リホ。


Kousaku_rikoKousaku_keicocoKousaku_tomoya


左からリコ、keicoco、トモヤ。


Kousaku_reinaKousaku_rinKousaku_hiroto


左からレイナ、リン、ヒロト。      

| | コメント (0)

2012/10/17

森の中で七輪を使う練習

Kawa_sitirin2 アウトドアライフのために、買い求めていた炭がなかなか消費できないでいた。また緊急時に七輪を使って煮炊きが出来るようにもした方が良いと考えていたので、山で練習をした。Kawa_sitirin

秋刀魚を焼き、ジャガイモをホイルに包み、焼いてみた。煙が辺り一面に漂い、匂いも残り、もしかするとご迷惑な事をしたかもしれない。青梗菜の青菜炒めと、春菊のスープも温め、外の気温は10度だったので、調理を終わってから暖房用に手を炙ったりし、秋の夕餉の乾杯は情緒あるものになりました。

| | コメント (0)

2012/10/16

ひまわりと私の好きな色とドイツ国旗

Kawa_himawari 白樺の木の葉がだいぶ落ちたので、太陽の日差しがかなり入り込んでくる、10日ぶりに来た川上だ。快晴の今朝の気温は6度だった。昨夜来た時から石油ストーブを微弱でつけている。朝食のサラダにはルッコラとセロリとイタリアンパセリを我がクラインガルテンから採ってきた。これらは真緑だ。

私たちが来たとわかるとすぐ羽音をたててシジュウカラ、ゴジュウカラ、サンジュウカラがマズワオトモダチカラと来る。もうひまわりの種が無くなったからと彼らに言った。またあとで来て頂戴と言う。
それなら来年は畑でひまわりを植えて育てて種を採ろうかしらと相棒にに言う。私は映画『ひまわり』のテーマ音楽をハミングしながらヒマワリ畑をかいくぐって来るソフィアローレンになったつもりで踊る。『ところで、あの映画なんて名前だったっけ』『???』『ひまわりでしょう!』と大笑い。こうして活字にするとなんでもないけど、私たちは可笑しかった。こんな時間がたくさん積み重なって、結婚記念日は出来上がってくる。
『ひまわり』の映画の中のソフィアローレンとマルチェロマストロヤンニを思い出す。音楽はヘンリーマンシーニで始めから悲しさを約束した旋律だ。その哀しさがひまわりの黄色い色に象徴されていたように感じる。東日本大震災の津波の跡に植えられたひまわりを私は実際に見ていない。また放射性物質を吸うと言って植えるといわれていたひまわりも見ていない。震災の跡に植えられたひまわりは被災した人たちを元気づけるためのものだ。みんながそう言っている。Kawa_himawari2
私は黄色が好きだけれど、私には黄色は孤独を表す色のように感じる。それは私がそう感じているだけかもしれない。色彩が人に与える印象は人それぞれかもしれないが、その使いどころで意味が出てくるのだろう。ちなみに私は赤も好きだ。きっと太陽に近い色が好きなのだろう。紅葉していく色も黄色と赤だ。黒も好きだからドイツ国旗になる。
川上村の紅葉はまだ探さないと見つからないほどだ。山々の紅葉が段々と下におりて、都会の紅葉に移っていくまで結構長い時間楽しむことができる。

| | コメント (0)

2012/10/12

秋の花と葡萄

モチーフの一方はコスモスと甲斐路、もう一方はリンドウとマスカットで描かせた。

Akihana_asumi_2Akihana_hiroto3Akihana_riko



左からアスミ、ヒロト、リコ。

モチーフを写生する≪絵を描く勉強の日≫の課題なので先週のように≪音楽を聴いて描く日≫のコンセプトとは違ってくる。自由に描くのが子どもの絵を楽しくする。だが常識を知り、物をよく見て描くことの訓練が必ずしも絵の面白さを描けるということにはつながらない。ヒロトは直感的に花をがんばって描いた。

Akihana_manamiAkihana_rihoAkihana_tomoya 



左からマナミ、リホ、トモヤ。

オーストリア人の画家であり、児童美術研究の第一人者である、フランツ・チーゼックはたくさんの子どもたちに絵を指導し、数多くの言葉を残した。

『子どもの創造において最も美しいものは、彼らの作りだす誤りだ。絵の中にこれらの個性に満ちた誤りが数多く表れるほど、子供の絵はすばらしいものとなる。また、教師が子どもの絵からこれらの誤りを取り除くほど、絵はつまらぬものとなり、わびしく非個性的になる。』


Akihana_reinaAkihana_rin 私もそれがわかっていながら、子どもが自分の描く絵につまずき、困っていると手出ししてしまうこともある。だから、今日のようなモチーフを子どもたちが見て描くことは私にもむずかしい美術のテストが出されていることになる。上はレイナとリン。

昔、小学校から中学、高校と続けてデッサンを指導した子どもたちの中に、静物画が絵としての面白さを表せた子どもたちが居た。月に一回ほどのデッサン教室だ。木崎君や米沢君、筒井さん、久米さんが来ていたころのことだけれど。今の子供たちも物をしっかり見つつ、小さいときの絵の感動をつないでいけたらと思う。

Akihana_hiroto1 このようなマンション住まいの中に天才的な画家となる子は見つけにくいと思うから、平凡な才能の中に楽しんで描き、楽しいひらめきを大切にして自分の人生の中で、生かして暮らしていってくれたらいいなあと考えて教えて指導している。でもいつの間にか天才っぽい子がいたら、と思わぬ日はないのですが。

| | コメント (0)

2012/10/08

めったにない事の連続した日々

10月1日 蒲鉾板絵展のコンクールに入選し表彰式に出られる葉書がきた。
10月4日 磯江真生ちゃんの双子の赤ちゃんと遊んだこと
10月5日 Ipadを使ってトイザらスでお絵かき教室をしたこと
10月5日 マイカーがマニアル車からオートマ車に変わったこと

嬉しい事、楽しい事、初めてのこと、新しい事が1週間に4つもあった。

今回の蒲鉾板絵展はまだ何の賞かは分からない。20年前に私は「幸せのねじ」でマリークリスティ-ヌ賞を取ったことがあった。その時は父もブランデンブルグ門を作り「ペレストロイカ」で針生一郎賞をとった。そして親子で賞を取ったので同伴家族として母と私の夫も一緒に行き、嬉しい受賞記念の出来事となった。今回の作品の題名は「幸せの年輪」。

Isomai_2b 磯江真生ちゃんの双子の赤ちゃんがIpadを使うようすを見たかったので、遊びに来てもらった。トイザらスでLAZOOのお絵かきアプリのデモンストレーションをする実験として、私がどう対応できるか自信をつけたかったからです。でも子ども好きの私は、途中からもうお遊びになってしまった。

そして最近弟から連絡があり「ipadを使ってトイザらスで小さい子供たちにその遊び方を教えてあげてほしい」と連絡があり、新し物好きのはずなのだが、最近少しばかり重くなった腰を上げることにした。LAZOOの「ぐるぐる」というアプリがあり、指だけで絵を描く。トイザらスで若いお母さんの中に入ってやるからには目立った方がいいかしら? とか、やっぱりつなぎのジーパンはいて付け睫毛ばっちり入れてベレーかぶって、水森亜土じゃなくて、水守井土ちゃんになろうかしらと考えたりしていました。むふふ。
そして以前あとりえチビッコに来ていたラミちゃんもお手伝いをしてくれることに決まりました。2日ほどデモンストレーションやってみましたが、私はどうも小さい子供と目線が合うようです。昔生徒と一緒にお仕事ができるのもなんだか嬉しいです。ヤッパリ水守井土路線だな。

そして、我が家の車がマニアル車からオートマ車に変わり、操作をカーナビ画面ですべてパソコン上でするため、覚えるまで時間とエネルギーがかかりそうです。色はまたしても赤です。今はとにかく≪新しいことに挑戦する楽しさ≫の中で遊びたいと思っている。

| | コメント (1)

2012/10/07

音楽を聴いて描く@ガムラン

 今回は民族音楽のガムランを聴いて描かせた。インドネシアバリ島のグヌンサリ楽団の≪ベンデット≫を選んだ。ガムランは大小さまざまな銅鑼や、鍵盤楽器を使って、舞踏と一緒に奏でる音楽だ。昔、神奈川県民ホールに、ブリアタン歌舞団が来た時にその演奏を見に行ったが、幻想的でもあり、激しく盛り上がっていく様は衝撃的だった。子どもたちにはクラシックやジャズなのどを主に聴かせて描くことをさせていたので、少し毛色の違う音楽にしてみた。今回は私も見本に描いたものを載せてみた。

Gamuran_hiroto_2Gamuran_asumi_2Gamuran_keicoco

左からヒロト、アスミ、keicoco。

Gamuran_manamiGamuran_reinaGamuran_riho

左からマナミ、レイナ、リホ。

Gamuran_rikoGamuran_rinGamuran_tomoya


左からリコ、リン、トモヤ。

もちろん、このような課題の日は開放的になり、楽しく話をしながら絵を描く。この時間がいつかものすごい心の財産になるはずと思っている。   

| | コメント (2)

2012/10/01

「非常時の言葉」に触発されて

  今朝のNHKラジオの、≪著者に聞きたい本のツボ≫では高橋源一郎の『非常時の言葉』が採り上げられていた。

  ≪あの3・11からの後ではもう読めなくなってしまった文章と今なお読める文章との違いはなんだろうかと考えてみる。すると「あの日」以来、ひとつには「死」というものが身近にあることに気づく。「自分の死」を勘定に入れずに成り立つ「日常」の文章を、もはやそのまま受け入れるのは難しいのだ。≫と説明している。

  不肖私もあの3・11から波のように書ける日と書けない日があったのを漠然と感じていた。それを明快に表しているようで、これは「非常時の言葉」は取り寄せて読まねばと感じている。私の場合はただ単に才能のない凡人が普通に日常的に起きたことかもしれない。だが現実に福島のいわきの親戚の人たちのことを思うと、どんなことも差しさわりがあり、傷つけることになると感じた。
また地震や原発が無くても、人は平和な時でさえ鬱や引きこもりになるのだからこのような時はなおさら、周りの人の病の引き金を引くようなことはしてはいけないと躊躇することばかりだった。だから、放射性物質も自分自身は心配だったが、それぞれが考えて決めることと決めて、ほかのことだったらブログを通じて書けることも控えていた。それと、化学に疎いのだから何か言うなんて無理だ。

  このような気持ちが起きるのもあの3・11から1年半が過ぎたからかもしれない。また話は変わるが、私は35周年の集いのパーテイーが終わってから、あることに焦る気持ちがあった。それは次女が小学1年から2年生までの間に書いた作文を形あるものにしたいということだ。
今から30年前、大豆戸小学校の1、2年生を担当してくださった結城先生が毎週水曜日に出してくれた宿題だった。作文帳は4冊になっていてその日のことや前後の日々のことや家族のことを書いていて、それは今も我が家に残っている。読み返すとあの頃に起きたことが、素直な文章によってまざまざと蘇ってくる。もしも、今、一大事が起きたら、私はそれをもって逃げるだろうというほど、貴重な存在になっている。私は出来るだけ早く結城先生に形あるものにして感謝の気持ちを表したいと思っている。同じ小学校に通った長女はそういう宿題が無かったので、残念ながら作文があまり残っていない。

私は時間があると、パソコンのワードにその作文を入れていて、9月中に入れ終わった。あとは私流の小冊子的な製本をしたい。本当は本人の幼いたどたどしい文字で製本したかったが、文字が大きすぎるため、活字にした。次女は製本について、最近勉強しているので、私の作り方では満足できるとは思えないけれど、私が以前母の文章を小冊子にしているのを知っている。そんなノリで私が作ったのは分かるだろう。今年中に製本をし、形あるものにしたい。

そしてまた「非常時の言葉」に戻れば、小学校低学年の子供が言葉を覚え、文字を覚え始めた時の文章は自分の周りに対して新鮮な驚きがある。時間が経てば経つほどいつまでも読みたい文章として光り輝いてくるのじゃないかと感じるのです。だから、3・11の後でも、文章は稚拙であってもともかくも生の喜びを感じる≪残したいもの≫になるのではないかと思うのです。親馬鹿丸出しかもしれないが、高橋源一郎氏の「非常時の言葉」に触発されてつぶやきます。

| | コメント (0)

« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »