「非常時の言葉」に触発されて
今朝のNHKラジオの、≪著者に聞きたい本のツボ≫では高橋源一郎の『非常時の言葉』が採り上げられていた。
≪あの3・11からの後ではもう読めなくなってしまった文章と今なお読める文章との違いはなんだろうかと考えてみる。すると「あの日」以来、ひとつには「死」というものが身近にあることに気づく。「自分の死」を勘定に入れずに成り立つ「日常」の文章を、もはやそのまま受け入れるのは難しいのだ。≫と説明している。
不肖私もあの3・11から波のように書ける日と書けない日があったのを漠然と感じていた。それを明快に表しているようで、これは「非常時の言葉」は取り寄せて読まねばと感じている。私の場合はただ単に才能のない凡人が普通に日常的に起きたことかもしれない。だが現実に福島のいわきの親戚の人たちのことを思うと、どんなことも差しさわりがあり、傷つけることになると感じた。
また地震や原発が無くても、人は平和な時でさえ鬱や引きこもりになるのだからこのような時はなおさら、周りの人の病の引き金を引くようなことはしてはいけないと躊躇することばかりだった。だから、放射性物質も自分自身は心配だったが、それぞれが考えて決めることと決めて、ほかのことだったらブログを通じて書けることも控えていた。それと、化学に疎いのだから何か言うなんて無理だ。
このような気持ちが起きるのもあの3・11から1年半が過ぎたからかもしれない。また話は変わるが、私は35周年の集いのパーテイーが終わってから、あることに焦る気持ちがあった。それは次女が小学1年から2年生までの間に書いた作文を形あるものにしたいということだ。
今から30年前、大豆戸小学校の1、2年生を担当してくださった結城先生が毎週水曜日に出してくれた宿題だった。作文帳は4冊になっていてその日のことや前後の日々のことや家族のことを書いていて、それは今も我が家に残っている。読み返すとあの頃に起きたことが、素直な文章によってまざまざと蘇ってくる。もしも、今、一大事が起きたら、私はそれをもって逃げるだろうというほど、貴重な存在になっている。私は出来るだけ早く結城先生に形あるものにして感謝の気持ちを表したいと思っている。同じ小学校に通った長女はそういう宿題が無かったので、残念ながら作文があまり残っていない。
私は時間があると、パソコンのワードにその作文を入れていて、9月中に入れ終わった。あとは私流の小冊子的な製本をしたい。本当は本人の幼いたどたどしい文字で製本したかったが、文字が大きすぎるため、活字にした。次女は製本について、最近勉強しているので、私の作り方では満足できるとは思えないけれど、私が以前母の文章を小冊子にしているのを知っている。そんなノリで私が作ったのは分かるだろう。今年中に製本をし、形あるものにしたい。
そしてまた「非常時の言葉」に戻れば、小学校低学年の子供が言葉を覚え、文字を覚え始めた時の文章は自分の周りに対して新鮮な驚きがある。時間が経てば経つほどいつまでも読みたい文章として光り輝いてくるのじゃないかと感じるのです。だから、3・11の後でも、文章は稚拙であってもともかくも生の喜びを感じる≪残したいもの≫になるのではないかと思うのです。親馬鹿丸出しかもしれないが、高橋源一郎氏の「非常時の言葉」に触発されてつぶやきます。
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