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2015/05/19

土浦霞月楼の屏風

Byoubu1
写真教室シャトロー会の撮影会で、茨城県土浦に行きました。私も最近は撮影会に同行し、いろいろ見聞を広めさせいただいています。

室町時代に築かれた土浦城址、まちかど蔵などの資料館も所々にあり、歴史の町でもあると分かりました。今回は芳州先生の新しいオリンパスのカメラSH1を借りて、松傘の落ちている地面と城門を撮ったりするのがデジカメ的で、撮るのが楽しくなりました。堀の中には鯉たちが泳ぎ、素晴らしい晴天の中菖蒲も咲き、歴史的建造物が所々にあり、ゆったりとした時間を過ごせました。いつの旅も私にはほとんど昼食が目的のような小さな旅です。今回は料亭「霞月楼」がメインの旅であったとも言えます。


戻ってインターネットで調べると、土浦は土浦駐屯地が大正10年1921年に海軍航空隊として開設され、横須賀から予科練が移設され、海軍航空隊、第二次大戦で米軍に接収され、警察予備隊を経て陸上自衛隊へと変遷しています。そして現在霞ヶ浦に面して自衛隊が駐屯しているのです。


霞月楼の会席膳は身体に良い食材を使って丁寧に作られていました。お酒も少しいただいてほろ酔い加減の時に、女将が霞月楼での予科練とのかかわりを説明してくださいました。予科練とは旧日本海軍予科練習生の略です。15,6歳から入隊し、若い飛行兵が明日出征するという日の前に霞月楼に来て食事をし酒を飲んで羽目を外すのは黙認されたそうです。百畳の畳をはがして重ねて遊んだり、また、屏風に記念の言葉を書いていきたいと書き残したりもしたそうです。


折しもその日の国会の審議で安倍内閣は国際平和支援法案と武力攻撃事態法改正案などを国会に提出しました。そのことを念頭に置きながらこの屏風の説明を聞くことは意義のあることでした。霞月楼の女将は屏風の中の回天、死生一如、ヌードのデッサン、昭和19年5月、また神州不滅の字の下にある磯のサインが人づてに伝えられて、存命である事が分かり、その方は磯部利彦氏と判明し、「火だるまからの生還」(高文研)の著書を出されていることも分ったのだという。霞月楼の女将のお話は私たちに戦争について問題意識を呼び起こしてくれました。


私もこの屏風から何かを探り出したいと調べてみた。春駒と梅太郎は芸者さんの名前だろうか。戦闘機の絵は回天だろうか。回天は人間魚雷と言われている。神州とは日本の国という意味。下地にはウズラの日本画も描かれている屏風だ。征空萬
里などの文字は信じて違わぬあのころの日本の教育なのです。上方の二文字の難しい崩し文字はわからない。所々にある人物模写は恋人の絵だろうか、たまたま傍にいた仲居さんなのだろうか。花櫻の文字は散るを意味して書いているのだろうか。

一双の屏風に託された若者の気持ちを約70年経って読み解くのも、歴史や、日本の本質を考えることと同じくらい大切な事のように感じる。それは今を生きる身近な若者たち、ぶっちゃけて言えば私のあとりえチビッコの最後の男の生徒たち、健太郎や智哉、
洸人、知之の人生へと思いを馳せることになるのだと思う。

日本を守ろうと空に散っていった若者たちが居たことを身近で感じた。だが絵を通して教育をしてきた私の立場からはこの行為を美化することは出来ない。それは今中東で起きている自爆テロにも通じるからだ。だが伝えていかないといけないことではある。

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