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2016/09/10

「君の名は」見てきました

映画監督の出身地が長野県南佐久郡小海町ということから、どうしても見たいと夫と2人で「君の名は」を昨日見に行きました。学校は始まっていたはずですが午後2時からの席を占めるのは中高生の女の子男の子でした。孫のトモ君くらいの子たちです。
映画の宣伝で、男の子と女の子が入れ替わると聞いていましたが「それは絵空事ではないか」という固定観念が私には有りましたが、それを消しながらのららぽーと新横浜での座席着席でした。「もうすぐ70歳なんだからしょうがない」「若い時のように柔軟には考えられない」と何処からかささやく声もしました。


「朝、目が覚めると、なぜか泣いている。そういうことが、時々ある。見ていたはずの夢は、いつも思い出せない」映画「君の名は」の始まりは夢に対しての言葉でした。「絵空事だわ」という気持ちも少し減りました。夢を見て泣く事は私も小さい時にありました。それは小学生から中学くらいまででした。そして今も長野の山小屋に行くと不思議な夢を見る。標高が高いせいです。私は主人公の三葉と違います。私は夢を見て覚めた後、思い出して泣く。夢は現実の生活以上に大切だと思っている。私の「絵空事だわ」という疑わしい気持ちが少しずつ減りました。「今この映画館で見ているあの中学生の子たちはそのような疑うこともしない無垢な気持ちで見ているんだろうなあ」と私の胸がモゾっとしました。
山深い田舎に暮らす女子高生、三葉は古い風習や人の目が気になる田舎を出て都会へ行きたい憧れがありました。都会で暮らす男子高校生、瀧はある日行った事もない田舎の町で女子高生になっている夢を見ます。それから何度も2人は入れ替わることになるのです。三葉の住んでいる糸守町での風習や伝統を守りながら、入れ替わっている内、ある時2人は連絡が途絶えてしまう。三葉が教わっている組紐をムスビつかせるように糸を手繰り寄せ始める。そこには千年ぶりの彗星を待ち受ける人々もいる。まるで予知夢のように決定してしまった現実を回避しようとする若い魂がある。全てが終わったように音のない現実の中、まだ探し始める、求め合う魂がある。これから先は映画の中で見て気づいて欲しいから内容は言えません。
男女が入れ替わるというのは一つの論法(ロジック)であって、ロジックをかき回して得られる新しいカオス(混沌)のようなものがこの映画には漂っている。
若い君たちが愛する人、自分にぴったりの人を探し続ければきっときっといつか出会うでしょう。
真面目に69年生きてきたおばあちゃんとしてこの映画は良いと感動しました。初めに抵抗を感じたのが幸いしたのだと思います。

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