2012/02/26

35年前を思い出して

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左作品はヒナタとタケシ

あとりえ・チビッコの展覧会に向けて子どもたちに作品を描かしている。これから約一カ月がラストスパートだ。以前は大倉山記念館、県民ホールギャラリーで発表したが現在の生徒の人数では面積が広すぎるため、指導している自宅隣の教室を展覧会場にして、これで2回目だ。2年前の前回初めてした時はどうなる事かと思われたが、自分一人で会場作りから、作品指導、招待状作りなどをするのは結構大変だった。そして会場を借りるということは会場係を置かねばならない。ご父母の労をいとわなければならないのが、難しくなってきていた。そこで縮小したのです。

私がこの教室を35年前に希望が丘で始めた当時を思い出している。自分の子を混ぜて6、7人の教室の展覧会をさせていただいたのは横浜銀行希望が丘支店だった。銀行のフロアを会場にして作品を飾った。平面の作品のみを飾り芳州先生にも手伝ってもらいながら始まったあとりえ・チビッコの展覧会だった。私もまだ若く、体力もあり、実際同年輩よりは若く見られ、まあ要するに早―い話がピチピチだった。(ここで自慢話)

今、こうして展覧会を自宅でするということはあの35年前の発展途上に戻ることは出来ないが、ある意味では熟成している。子どもたちを見る目が鋭くないかもしれないが、優しさに満ちていると思う。また経験が積み重なっているゆとりもあると思う。これこそが情操教育なのだと思うことがある。幼児や小学生は大人と違うので、造形活動には制作を促す優しさと厳しさが必要だがその子を長い年月観察しながらの間合いが必要だ。私にはその力があると思う。この指導方法に対して理論的な考査をすることは私自身の能力不足もあり出来ていないが、指導していることは子どもたちに絶対プラスに働くはずだ。そう信じてやってきたしこれからもそうすると思う。

 

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2010/07/27

母の祈りに似て・健太と健太郎

子供たちに絵や工作の指導をして、今年の夏で何年が経ったのだろうと、指を出して数えFrance_5g る。夏から始めたのでいつも7月になると数えてしまう。確か次女が2歳、長女が4歳の時だ。そう私が29歳の時から始めたのだから、34年が経った。

暑い夏の横浜・希望が丘のマンションの部屋から始めた。次女が飽きてしまわないように氷かきとコーヒーミルを用意して始めた。そのうちに子供たちの友だちが教えてほしいと入り、娘たちは中高受験も経て、美大へと進んだ。その間に教えた子供たちは何人になるのだろう。

20年ぐらい前には、指導者と言うのは自分の指導の成果や結果を見たいから長生きしないといけないと思っていた。そして子供の側に沿った絵画指導、子供たちを喜ばせる工作、子供たちの心を絵を通じて健康にさせられればという思いでここまで来た。今自分の長生き論には少し変更部分が出てきたけれど。

先週で健太郎と健太が あとりえ・チビッコをやめた。厳密には明日なのだけど。津崎家とはかなり長いお付き合いだった。姉の江美、そして健太と続いたからだ。健太郎は元々の家がある和歌山に戻る。

私は誰にでもそうであるが本人の個性を殺さぬように、自由に描かせていた。写実である静物画の時には訂正や軌道修正が必要なデッサンもあったのだけど、自分で気づくまで待とうと、意識的にほっておいたことが多い。健太郎とは思っていたより早い別れが来てしまった。そこで私が少し戸惑っている。

健太はドーンとした主張があって、面白い。躊躇しない判断力の早さがある。スケートを通じて培われたものかもしれない。繊細さは少ないから、もしかすると対照的な二人だったのかもしれない。健太は絵だけではなく、全体を見る社会性が人一倍あると思う。中心になって他の子たちに光を与えていく存在感があった。そういう観点から二人はどんな絵を描くだろうといろいろな課題を出してきた。ケンタとケンタロウは、作品の個性が光っていた。彼ら二人がいなくなるのは寂しいけれど、新しく入ったタケシやレイナ、前からいる個性の強い子どもたちがまた独特な世界を繰り広げそうでもあるから、心配はないでしょう。

私はいつでも、子供たちの幸せを祈っています。今年のフランス旅行の際のプロバンの小さな教会に入った時のマリア像がこの子供たちへの≪さようなら≫の気持ちを表す良い写真だと思うので、母の祈りのように載せておきます。健太と健太郎がいつも元気でいられますように。世の中の悪から救って下さいますように。お母さん、そしてお父さん、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に私も、彼らの成長を祈っています。

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2010/04/18

大倉山逍遥学派への提案≪暮らしの中の旅・2≫

Okurayama_asibi 久しぶりに晴天となったので、大倉山駅近くで稲荷寿司など買って、お山を登る。愛犬ココも一緒に行く。最近は孫のトモ君も野球チームに入ったので簡単には遊びに来られない。記念館の坂は相変わらずきついが、娘と幼稚園まで通った坂なので思い出深い。

大倉山記念館の近辺は整備されて、いろいろなコースがある。竹林がいたるところに生えていて、馬酔木の新芽が赤い色で森の空間をワイン風味にしている。記念館ではボーイスカウトの子供たちが集まっていた。今年は記念館での展覧会をしなかったが、いつかまたお借りすることが出来るだろうか。

Okurayama_saka 坂を下りて梅林の見える高台でお食事にする。昨日の誕生日の食事がヘビーだったので軽くする。そういうことに気を使う年になった。坂道を造る崖の草叢に多種類の植物が繁茂している。モミジの実生の芽がいたるところに出ている。秋に落ちて春を待って出てきた小さな芽たち!この芽たちの上に欧州の火山灰は降ってくるだろう。昨夜、この間買った地球儀を指でなぞり、噴火が起きたところや地震が起きたところを見ていると、確率として、日本にまだ何も起きないことが不思議なほどだ。備えあれば憂いなし。1本のペットボトル軽んずべからずの精神で気をつけねば。Okurayama_sumire_2

ところで大倉山記念館の建物がギリシャ建築を模して建てられたと聞くが、こうしてぶらぶら散歩することを逍遥といい、ギリシャには逍遥学派がいた。アリストテレスだ。調べてみると論理、自然、社会、芸術のあらゆる分野に及び、形而上学、自然学、論理学、倫理学、政治学、詩学、博物学に関する著作があるという。

Okurayama_jizou うーん、私たちもこの大倉山の自然に囲まれて格調高く、論理展開をしてみたいが、アリストテレスで引っ掛かる。そして甘党の夫君をアリンコテレスなどと揶揄する。もうカリントイーストウッドで終わりにしてたのにね。笑いながら大倉山1丁目から高級マンション群を抜けて、ねぐらに辿りつく。3時間の逍遥でありました。

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2010/04/08

スペースシャトルを描く@子どもたちの記憶

Shatoru3 スペースシャトルのディスカバリーが5日に打ち上げられた。あとりえ・チビッコでは展覧会から初めての教室でもあり、新学年になったので、はりきってこの話題を取り上げた。このような絵は想像では描きにくいから参考になるものを用意して進めた。ロケット打ち上げの記事をコピーし、グルグル回る地球儀を置き、芳州先生の愛読書ナショナルジオグラフィックの宇宙関係をピックアップして臨んだ。この記事について子供たちの中には家族で話題にしているようで、楽しく考えて絵を描いた。山崎さんが女性であり、またスペースシャトルが引退するようであるのも悲しいが、≪時事についての絵≫を描いたのはわが教室ではもしかすると初めてかもしれない。

Shatorumanami2ShatorutomoyaShatorukentarou 左からマナミ、トモヤ、ケンタロウ。

描き方は漫画的、デザイン的、科学的、説明的のどれでもよしにし、画材はクレパスでも、マーカーでもOKという設定で描かせた。

ところどころに描かれたUFOが新しいキャラクターになりそうな感じだったのはマナミちゃんだ。ケンタロウくんのお友だちトモヤくんはたくさんのユーホ―を描いていた。そこから今度の映画「第9地区」は見るかどうか話題になった。私は怖いけど見るでしょう。ケンタロウがナショジオの、ロケット発射の写真のそのまた中にコウノトリが噴射の前に映っているのを発見した。子供の目は凄い!彼は空の色を工夫して塗り重ねた。

Shatoruriho

ShatoruhinataShatorumomoka 左からリホ、ヒナタ、モモカ。

リホちゃんは星や地球やUFO、ロケットがしっかり描けていて、将来の絵本作家を目指し始めた感じがする。まあこう言っても厳しい道のりだけど、自分が満足する絵を描くのも自分の心にとって大切だから楽しんでやっていきましょう。ヒナタは地球を自分の好きな緑と青のマーカーで丁寧に塗った。4年生からは自然科学(理科)クラブに入るという。そこで私は今度部屋の書棚の中にナショジオを定位置にたくさん置き子供たちに見せよう。環境悪化の怖い写真もあるが現実を見る強さも大切だ。モモカちゃんはなんとなくデザイン的な宇宙だ。

ShatorurisaShatorunamiShatorukenta 左からリサ、ナミ、ケンタ。

リサちゃんの水金地火木と太陽も図鑑丸々写しだけど、本人にとって良い課題となったと思う。ナミちゃんは模型の宇宙ステーションやロケットを良く見て描く。夜の暗さをマジックで塗ったが少し光を反射して写真がテカってしまった。健太は相変わらずダイナミックに描いた。

Shatoruriko_2  新しく入ったリコちゃんはきちんと描いたが筆圧が弱いので何度か描き足すことをする。

今回のスペースシャトルは新しい試みをしたのだが、子供たちも満足して描くことができたと思う。またこのような時事に関するものを取り上げて、子供たちの記憶に留めさせたい。

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2010/03/24

あとりえ・チビッコ展覧会//2010@子供たち

Tenrankai_a 子供たちの作品は1月から3月までに描いた作品の中から展示した。具体的には自画像、人形、スクラッチ画、冬の野菜、重なる2枚の絵を子供の個性を考えて選んだ。

モモカはパステル画が好きで描きこみ方もフワッとしている。色使いもパステルカラーが好きなので、とらえどころがないようにも感じるがそれが彼女の描き方だと思っている。強すぎない絵はもしかするといつ見てもほっとする絵なのかもしれない。ナミは色の分量をダイナミックに使う。細かい表現より全体のバランスで描く。色彩のセンスは良いとは言えないがいつも新しい感じの色遣いがする。リホは細かい表現をするし、丁寧に描こうともしていたが、今まで美しさを描ききれないでいた。展覧会の作品を書きだしてから、それを意識させたかった。このチューリップの絵からその事に気づいてくれたようで、サイズは小さいがこの絵を選んだ。ケンタロウは自分を一生懸命見て描いた。細い筆をカサカサさせて描くのが好きであるが今回は筆を大きめにさせた。鏡にうつした自分を書いたのが面白く、また本人とそっくりなので、会場の話題となった。ケンタロウは理論的な場を持つのも好きで成長が楽しみだ。ヒナタはスクラッチ画が2枚とも場面が同じに感じるので一緒の額に納めた。スクラッチも、干物も線描が好きだということでもある。ヒナタに聞くと理科系の学科が好きということであるので、こうした絵の傾向は進路的にはうなずけるし、忘れてはいけないことに感じる。以前あとりえに来ていた萌ちゃん、葵ちゃん姉妹を思い出させた。萌が絵の賞(三菱子供アートフェスチバル日本代表)をとり、姉の葵は萌の静物画に圧倒されていたが、武蔵野美術大に進み、萌は生物系に進むと聞いている。受験はどうしただろうか? 私は子供たちにはいつも平等を心がけているが、時には真実を言おうとするあまり、子供を傷つけていることもあるかもしれない。それは私が小さい時を思い出せばわかることだ。

Tenrankai_b リサはパイナップルとビンを元気に描いた。まわりを青で囲んでからオレンジで塗るというダイナミックさ。そして筆圧は相変わらず強くどの絵もそうする。持って生まれた表現方法で、それは他の子と変えようもない。ケンタはいつも時間がない。でも私はこの絵が描けて、作品が残って良かったと思っている。後ろの色遣いもケンタらしい。集中して描いている。ケンタが描かなければこの絵は残らなかった。スケートをするケンタと絵を描くケンタ。スケートも彼の体の中には快感として残り、CMとしての映像で残るだろうが11歳の肖像画としてこれも永久に残る。

Tenrankai_c マナミちゃんは静物画を描いたがバレーが好きな子だ。作品がにぎやかに華やかになるのはバレーの照明や衣装からの影響もあるのだろう。子どもたちはいろいろなことを勉強して究極自分の道を決めて行くのだろうが、いろいろなことをさせてもらって幸せだ。他の絵でもバレーシューズを上手に描いた。絵を描きながらのおしゃべりでは大人の世界を良く見ている。どのようなお嬢さんになるか、どのようなママになるか楽しみだ。カホは青い色が好きだ。私がフランスのエギスハイムで買った敷物を置いておくとすぐにその静物の前に座って描き始めた。でも、細かすぎることはしたくない。で、その中のアルファベットだけは描いた。とにかくその前の葉っぱや茎のねじれに辟易して描いていたからね。でもしっかり描いた部分と空いている空間のバランスは良かったので、OKとした。小さい時から来ていたけど今回で最後。絵を描くこと以外で何かを学ばせたつもりだけど、カホもどのような花が咲くのだろうか? 

Tenrankai_d ハルキは初め、指導がとても大変だった。少し落ち着かなかったけれど、いろいろ工夫をして今日まで来た感じがする。もっと別に向いていることがあるかもしれないが、この自画像まで描けるようになったことは指導のランダムな作戦が成功したのだろう。アラビアンナイトの千夜一夜物語のように別の意味ではいろんな子供たちがこの私を育ててくれたのかもしれない。希望が丘教室の4人は最近まとまりが出てきていた。それぞれが個人的に来ているのであるし、まとまって競技するわけでもないのだが、制作する際に感じる<良い空気>があった。アヤノはデッサン力が付いてきたし、もともと絵画に向いている子だ。この人形の仕草も自然と描けていて、動きが感じられて、お部屋に置いておくと動き出しそうだ。今回アヤノをあとりえ・チビッコがんばり賞をあげた。ユイは動物関係の仕事がしたいといつも言っていたので、最後の展覧会の絵はココちゃんにしようと思っていたが、案の定良い絵が描けた。ココのおもちゃまで描いて記念になる絵でもある。それと、肝臓の移植手術を乗り越え、ユイちゃんも良い子に育ち、小学校を卒業しご両親もほっとしたことであろう。モモコは白い服を着た人形を描いたのだけど顔がお母さんに少し似ていた。白の色が分量としては多いが目や毛がしっかりと描けていたので良いと思う。子供らしさがあって素直で良い作品だと思う。カノンはこの果物のバナナのデッサンを間違えた部分を一本の線で直すことで立体的になった。もう少し教えていたかったけど仕方がない。

Tenrankai_f Tenrankai_e

子供たちが、平面から立体を感じるところに至った時が指導の急所でもある。自分で分かる子もいれば、教えることで分かる子もいる。これから先、アヤノとカノンの学校のクラブの先生に良い指導が受けられると良いのだが。

絵画は心を開くと良い絵が描ける。子供たちの中には風邪で学校に行けない日でも、またピアノは休みたくても、あとりえ・チビッコは来たいと言っているという。心を開く場所だからだろう。私もその事を念頭にこれからもがんばっていきたい。

6年生まで教室に通ってきた、モモコには絵本<しろいうさぎとくろいうさぎ>とユイには絵本<百万回生きた猫>をプレセントした。

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2009/12/03

内田樹の「日本辺境論」を読んで

「日本辺境論」内田樹著(新潮新書)はブログ「内田樹の研究室」の雰囲気で書いているのだが、大きな講堂での講演会ではなく、小さな階段教室で講義しているような感じがする。難しいカタカナ英語や漢字はやはり辞書で引かないと、理解できないが。日本人の辺境(中央から遠く離れた国ざかい)性についていろいろな事例を挙げて書いている。また昔からそれを取り上げている作家について分かりやすく説明が加えられているので、今まで分からなかったことを解き明かすように読むことができた。

難しいことでも、昔から自分が知識として希求していることについては意外にすっと解る。その日本人の辺境性について書いている先人の中には丸山眞男がいた。

私は丸山眞男を若い時に読んで、理解できない記憶だけを残していた。それが内田樹の説明を聞くと、今度は理解ができた。と言っても昔読んだが理解できなかったという記憶のみで、どんなことを書いていたか、どの書籍かも思い出せない。女子美短大で美術を遊びながら学び、少し偏差値の高い友だちと話ができるようになればと良いと蛍雪の功を積んで、丸山眞男を少しだけ読んだ程度だから、言うほどのことではない。でも理解しようとしたファイトが、今もって心の芯に小さな炎を絶やさせないでいられたのかもしれない。

いくつかの事象を丁寧に、角度を変えて説明してくれている。卑弥呼が親魏倭王の称号を与えられて、国の指導者としての存在を示したこと。戦後の調停制度のあいまいな処理の仕方。オバマ演説のようなことは日本ではできないこと。その場の空気の親密性を自分のアイデンティティよりも優先させることをルースベネデイクトが「菊と刀」でもう指摘している点などの説明。そこから日本の世界大戦への道が始まったこと。関ヶ原の戦いでの様子見にみるきょろきょろした日本人らしさ。水戸黄門の印籠など身近なところからの説明がある。。

私が≪日本人て、どうしてこうなのだろう?≫と思う場面、場面に当てはめると分かる気がする。そして、日本辺境論を読んでから、最近毎日起こるいろいろなことがすべてがその辺境論的な展開で見ると納得のいく説明に辿りつけ、面白い。3世紀半ばの卑弥呼から続いている呪縛された日本と、流動的な今について内田樹の理論展開が新しく感じる。旧政権から鳩山新政権になっての政治のやり方の違う点が、この本は証明している気もする。内田樹が1124日のブログで書いている「なぜ日本軍は真珠湾攻撃をしたのか」は日本辺境論を読んでいたので理解しやすかった。

教育についての部分で感動した個所があった。ここで私が引用して書くことはまるで私が書いているようで、憚られると感じるのでページと行のみ書きます。98ページ14行から99ページ最終行までです。その個所は、私のような市井の≪あとりえ・チビッコ≫のしていることは、社会の中では風前のともし火ではあるが、いつかは分かってもらえる日が来るかもしれないので未来に希望を持って進もう。という意味にとりました。神にも理性にも分かってもらえなくても(アルベール・カミュー)も付け加えて。

そして、この本の最終目的の教訓を内田樹は「私はこうなったら、とことん辺境で行こうではないかというご提案をしたいのです」まで導びかれる。

今回、最初に読んで、次に棒線を引き、読んで分からない個所に印をつけ、辞書を引き、結構勉強した。本は鉛筆の線だらけだ。高校生の頃に戻った感じで勉強ができた。私はリンクに内田樹先生を含めていろいろな先生方をリンクしているのは、いつまでも学生生活を続けていたい表れなのかもしれない。インターネットはそのような研究室のドアを気軽にいつでもノックすることができる。

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2009/11/17

今年初めての雪と語学堪能な弟と日本辺境論

ブログネタ: あなたに“きょうだい”はいる?参加数

Kawa_b_yuki 今年初めての雪が降り始めた。こんなこともあろうかとチェーンは持ってきたが、スタットレスタイヤにしていないので、芳州さんは新しく買ったチェーンの説明書を読み、タイヤに巻きはじめている。

一昨日の夜ここ川上に来たが、今回初めて私の弟を呼んだ。今まで会社人間であったのと、海外での仕事が多く留守がちで、誘っていなかったからだ。英語が堪能であり、中国語、韓国語が苦もなく話せるようで、その他のイタリア、フランス、ドイツ語、フィンランド語も話せる。同じ姉弟で弟はこのように語学力が付き、私はほとんど駄目である。残念だが環境によるのだろう。

高校、大学で国際関係のクラブに属し、出版社の国際部勤務を長年続け、ただ単に一出版社の業務を続けるというよりは海外のいろいろな立場の人たちとの交流を大切にしている。海外での友人がたくさんいる。

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パンとサラダ、コーヒーの朝食を食べ、湖までの散歩を2時間近くすると、もうお昼の時間になった。一昨日の夜は清里のロックで弟からカレーやアラカルトの御馳走になったので、今度は八ヶ岳高原ロッジに行った。私はいつも言うのだが自然がたくさんある場所で食事をするのが最高の贅沢だと思っている。ここのレストランでは大きな備前焼の壺に一見無造作に木や花をダイナミックに生けている。それを見ながら川上村の方の山々を見ながらおしゃべりをするのも楽しい時間だ。

会話は話題も大切だが、そこにいる人たちとの間にある、信頼感が大切だ。少しずつ育っていく信頼感、またこの人が語る友人たち、知人たちへの尊敬や愛を一緒に感じるのも、人生に膨らみができて嬉しい。

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ところで弟はNOKIAのデジカメと携帯電話が一緒になったツールを使っている。海外からの電話もよく来て、大きな声で話す。まあ、声の大きな声の人には悪い人はいないと言うが、結構声が大きい。弟が語学堪能になるきっかけとなった出来事がある、それは弟の弱みを私が握っているということになるのだが、もうこれほど実力が付いたのならば一つのエピソードとして話してもいいのではないかと思う。かつて弟は麻布中学に通っていたが、中二の保護者面談から帰ってきた母が私に言った、英語がひどく悪い成績で、(確か30点ぐらいだった)どうしようかという。その当時私は海外文通をしていたので、それを弟にも勧めた。

そこで弟はフィンランドのタル・ラフテイネンちゃんと文通を始めそれはかなり長い期間続いた。フィンランドにも行き、サンタクロースの故郷にも行った。その期間に私は結婚し、娘の名前にはフィンランド語のすおみ(国の名前)と、あいか(フィン語の時間という意味)と名付けた。だから弟は娘たちのゴッドファーザーになる。結局、弟は海外文通を通して窮地を乗り切った。

こうして久しぶりに姉弟の旧交を交えるということで、そのことを思い出したが、私には昨日のことのような記憶ではある。母も山小屋ができた当時ここに一度来たが、もう来ることはできない。姉弟で楽しく、仲良くすることが親にとっての願いであろうから、戻ったら今日のことを話してあげよう。

ところで畑は何者かに大根の葉を食べられていた。ルッコラは残っていた。柵を点検したが2か所網の下側がめくれていた、ペグ状の杭を打っておけばよかった、もしかするとウサピョンかもしれない。湖の近くの草はらにたくさんのフンがあったからだ。さて11月17日、午前11時現在積雪7センチ。

私はこちらに来る前に買った、内田樹の「日本辺境論」を読み始めている。16日に売り出され、学芸大学駅前の恭文堂で段ボールから出してもらった。出来たての内田樹だ。昨夜、弟が韓国に行こうと誘うのをどうも私たちが「うん、連れてって」と言えないのは何故かの意味がこれを読むと解けそうなのでがんばって読もう。現在78ページ! 思いのほか読みやすいぞ。

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2009/05/05

ゴールデンウィーク@五月の風

Koinobori 今年の日本のゴールデンウイークは高速道路料金の一律千円による渋滞と豚インフルエンザのニュースの中で始まり終わるような感じだ。この二つのことを考えて予定を組み、メニューを考えると自ずから答えが一つになりそうだ。鳥が怖かったのに牛も怖かったのに、急に豚になるなんて。こうなったら異常に日本に増えてしまった鹿を食うしかない。

そう思っていたら、夜中に川上村の山小屋に着いた長女のお婿さんが、「今来る途中のラジオで鹿を食べると良いと言っていた。」と教えてくれた。食糧輸入を生業としている彼だから敏感なのかしら。

前回の山に来た時の写真で腹這いになって撮ったチューリップも今回来たら、食われていましたから、鹿には恨みがある。でも畑のそばの草むらに残っている、昨日落としたばかりの小粒なシカ糞を見たら、銃で撃つなんて考えられないし、ハイヨーシルバー!と言って、ロープで捕まえることだってデキマセン!やはり可愛い小鹿のバンビです!でも生来の食いしん坊万歳、バンビもビビンバ! 背に腹は代えられるかも。日本は食料自給率40パーセント弱、あとの60パーセントはみんなで工夫する鹿ないかも。

このところ、日本の土日祝日高速道路一律千円は私たちにはそれほどメリットはない。渋滞より時間短縮、少しだけ安くなる通勤割引を利用している。

ところでこの3倍くらいの記事を書いてから保存したのになぜか、消えてしまった。もう書く気なし。どうしたのだろう、ココログ。

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2009/04/16

八百芳賞の筍はカホの思い出になるだろう

KahotakeHarukitakeKentatake1                                                                                                                 左からカホ、ハルキ、ケンタ。 

絵に描く、筍を大倉山の商店街の八百芳に買いに行った時、おじさんが冗談のように、「いい絵があったら買ってやるよ」と言ったので、私も半分本気にしてご褒美をあげるといって筍の絵を描かせた。子どもたちには私がご褒美をあげることに心づもりしていた。だが、八百芳のおじさんは約束以上に子供たちの賞を本気で考えてくれていた。

昨日のおけいこの前に、電話をするとおじさんは、「カホとハルキだ。一等はカホだ。」と言った。なんだかその朴訥とした言い方に、私はカホとハルキのおばあちゃんになったようにうれしかった。

いつもかほちゃんは、もう少し丁寧に描いてごらんとか、ここもっと塗りましょうとかの、言葉をかけることが多い。今回の筍は八百芳のおじさんのご褒美と言ったとたんカホの頬が紅潮しはりきり始めた。いつもより長い時間絵に向かっていた。今度名前を変えたらどうかな ≪張り切りカホ≫なんて。あれ、えっつ!かほちゃん名前が良かったんだよ!カホとひらがなで書いておいただけなのに。苗字は何も書かなかったのに!ご先祖様が呼び寄せたのかも。冗談ですが。

そして、八百芳に行くと巨大なタケノコが3本あった。カホとハルキと、私にとおじさんはくださった。でも私は2人のほかにケンタが絵を2枚もがんばって描いていたので、もう1本の筍は健太に賞をあげることにした。

で、そのことをおじさんに話すと、「このケンタのは、緑が濃すぎて強すぎる。」と言った。そうだ、タケノコの見方、買い方の中に、黄色っぽい穂先の方が新しく新鮮で美味しいとよく言われている。やっぱり、八百芳のおじさんが選ぶのはそうなんだ。納得、納得。

それとおじさんは続けて言った。「俺はね、学校も満足に出ちゃいねえけど、絵も小さい時そんなに上手じゃなかったけれど、こうして、ご褒美をあげたら、その子が一生、うれしかった思い出ができると思うから、俺はそうしたかったんだ。きっとその子はうれしいだろうと思って。ほかの子より、自然な感じがした。」その言葉を八百芳の店の奥のごちゃっとしたところで私は聞いた。おじさんが誰よりも偉いと思った。

カホちゃんの絵はきちんと額に入れて、これからずっと八百芳の店先に飾られる。ハルキも良かったね。店先に飾られはしないけど、お母さんにお金に代わるお土産を自分が描いた絵でプレゼントすることができたんだから。

ケンタもがんばった分が報われた。ほかの子たちもこれからまたこうしたチャンスがあったら、先生もがんばります。

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2008/11/29

見捨て奉ること悲しくて・・・・

Madokaki先週忙しく過ごしたので、撮った写真を整理できずにいたのだが、今日かたづけることができた。そして山小屋に干してある柿の写真を見ているうちに高校生の時に習った古典の授業の中のフレーズを思いだした。《見捨て奉ること悲しくて》

ところがその出典を思い出せず、本棚の昔の全集などをぺらぺらとめくっても分からない。そこで困った時のインターネット。《見捨て奉ること悲しくて・・・》 で検索。すると、《更級日記、門出》と出てきた。私の脳内のシナプスたちがピッとつながってなんだかホットした。

インターネットの言葉の組み合わせの中には時々、困ったことや、不快に感じる組み合わせ方もあるが、こういった探し方ができるのはうれしい。このフレーズがなぜ思い出されたのかと言えば、ちょうど川上の山小屋をあとに、車に乗って窓を見たとき一生懸命むいた柿がまるで私に気を付けて帰ってねとばかりに見えて、あの古典の文章のことが浮かんだのだ。検索するうち、NHK高校講座学習メモというのもあったので、印刷した。手帳にはさんで暇な時に読もう。だが、その私の思い出したフレーズじたい間違っていた。

あづま路の道の果てよりも、なお奥つ方に生い出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、・・・・・・・・車に乗るとて、うち見やりたりければ、人まには参りつつ、額をつきし薬師仏の立ち給えるを、見捨て奉る、悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。(更級日記、門出より)

Sika0811_2 さて、その帰りの道でまたシカに会った。今年の夏にシカを見たときから、見つけるコツを覚えた。車の運転に似ているが、集中しないで全体をジロ目で見ることだ。そうしてこの鹿も見つけた。芳州さんが車を止めてくれたので私は道を戻って走った。川上と野辺山の境のYMCA近くの場所でそばには農耕車が畑を耕していた。が、シカはそれも気にせずにいた。

やはり私が近づくと逃げた。林間を駆け登ってこちらを振り向いた。何とか撮れた4枚の中で一番良いのはこの写真だった。カーソルを置いて大きくクリックしてみるとちゃんと写っていますから見てくださいね。

角は黒かった。数秒かもしくはもっと永かったかもしれないけれど鹿と目が合った。ジーン。秋は鹿の恋の季節だ。だからと言って私は人間。シカもおばちゃん。モシカするとおばあちゃん。かなわぬ恋。

『鹿さん、よく私と会うけれど、私は人間ですからね。もっと可愛いバンビを探してね!』

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