2016/03/09

千葉旅と渋滞

ここ10日ほどの間に新しい経験と嬉しいことが4つほどありました。①娘夫婦との千葉の旅行、②渋滞にはまった時に泊まった旅籠屋、③家系図を書いたこと。④フィンランド映画「365日のシンプルライフ」の発想の転換が面白いことなどです。先に①と②について書いてみました。

最近我が家のプードル犬のココが寄る年波で旅行の時に動物病院に預けられなくなってきたので今回はそれぞれ3台の車で行きました。ココは車中泊です。そして今回は千葉にしようと計画しました。過ぎてみればどうということもない旅行なのですが親子3世代が一緒に行くという計画は簡単なようで大変なのです。それぞれ仕事や学校行事を外しお正月に集まった時に日にちだけは決めて、前回の伊豆は次女だったので今度は長女に計画を頼みました。
初めの日のランチを道の駅「富楽里とみやま」の網納屋で食べるということで集合しました。そして全員一致の海鮮丼は客が見えるところで板前が捌き、大きな切り身で満腹になりました。そこから30分ほどの佐久間ダム湖親水公園で河津桜のお花見をしました。土を踏みながらの散策にココも久しぶりに皆んなとロング散歩をしました。足の動きが悪くなった我が相棒なのですが、娘たちが居てくれると私も油断してスタスタ先に歩いてしまい子供たちに「オイオイオイ!、ママ!」何てことは言わないけどね。これも旅の良い思い出です。
ホテルは以前行ったことがあるので、手順は心得て犬連れの車中泊です。いつもの会食の時にはお酒も飲めないけれど今回は違い、皆んなで安心してビールもすすみます。ホテルが改築中でしたがお部屋はとても綺麗に広々となっていて、部屋付きのお風呂も大きく気持ちよく入れました。あくる朝の朝食のバイキングの時に意外と人が泊まっていたと気づきました。これは結構大変そうだと感じ帰りの渋滞が気がかりでした。そこで勝浦雛祭りは辞めて海際のお花を見ながらのゆったり走行に切り替えました。
ランチは房総最南端のイタリアン「オードリ・キッチン」こんな所に住みたいねなどという会話もちらついて美味しく食しました。そこを出るといよいよ渋滞の兆しあり。まず次女たちは計画の金谷久里浜フェリーで、長女は船橋に下道で渋滞にあったようです。
私たちはアクワラインの渋滞13キロがいつまでもニュースから消えないので、私1人の運転を気遣って、相棒が検索して旅籠屋というモーテルに泊まることにしました。ただし我が家はここでもココは車中泊にしたのです。
けれど明くる日に、庭で散歩をしているとホテルの方から注意を受けました。私は犬は断じて車の中に入っていたと言いましたが、犬が入れる部屋があるということでした。後でネットで調べましたがホテルの人の言っていたことがよくわかりませんでした。
もしかすると車の中で鳴いて近所の住宅から苦情が来る場合があるのかもしれません。うちは他犬の臭いが気になって絶対に室内には入れられないのですから、車中泊しかできません。ココを連れて、観光地の旅籠屋に泊まるという計画は図らずも消えました。ポワン!
もしかするとこれはお店と"相談"てことでしょうか 。ホテル代の安さとパンとコーヒーがとても美味しく、年金世代にとって侮れないものがありました。
そして明くる日は4年に一度の閏年の2月29日でその日を渋滞のためにもう一泊しちゃった何て私たちも自由になったのね〜と感慨深いものがありながらのアクアライン道でした。

家族が積み重ねていく年月には渋滞もノン渋滞もあるけれど、可能な時は出来るだけ一緒に心を重ねてその時間を共有したいと思いました。2人の婿殿は楽しい旅行だとニッコリ笑って、帰りのホテル前の駐車場で言ってくれたので老夫婦は眼から鶯の涙ほどの水滴が出たようです。

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2016/02/08

過去ログ再登場! 私は今ここにいます。Gengenbach!

過去ログ再登場 。アクセス解析にこの記事が載っていました。2009年2月20日の記事です。懐かしくて堪らないので、皆さんにも再び読んでいただきたくなりました。ドイツのゲンゲンバッハのライブカメラが町を写していきます。7年前のことです。特に最後の方の「ココです」を絶対クリックしてね! 【私は今ここにいます。Gengenbach!】

私たちはドイツの黒い森のゲンゲンバッハ(Gengenbach)にいるでしょう。ファスナハトというお面を被った鬼や面白い人の面を付けた行列が続くお祭りを見ているでしょう。簡単に言えば日本のなまはげのようなもののようです。

出発前にはそのゲンゲンバッハの市庁舎の前の広場をインターネットでWEB CANという映像で見ていました。同じ時刻で映っています。しかし時差があるので、日本が昼間ならあちらは夜です。椅子に座っている人もみえます。雪の路面を滑らないように歩いている人もみえます。私が初めて見た時は大きなトレイラーがいて、材木を積み下ろし、そのあと見た時は広場に小屋ができていました。飛行機で13時間かけてつく場所が同時にパソコンで見えるなんて感動でした。

そこで私のちょっとしたいたずらな心がおきました。

ドイツ時間の2009年2月22日午後2時2分、

日本時間の2009年2月22日午後10時2分。

私は市庁舎前にいて日本の皆さんに手を振ります。「えっ、この日が何かの記念日なのですか?って」いいえ、何の記念日でもありません。覚えやすい日ですしその時刻が日本時間とドイツ時間で合わせやすい時間だからです。そしてたぶん広場に太陽がある時間だからです。ネット上で見る前に何かの手続き画面が出る場合もあるので、事前に見ておいたほうがいいでしょう。

たぶん、手か、ハンカチーフを振りますが、お祭りの最中で人ごみの中で分かりにくいかもしれません。5分間は手を振ります。それ以上することは少し怪しいと思われてしまうといけないので、WEBCANのカメラの方を見たいと思います。そしてKeicoco先生がいたと思う方はブログの方もクリックしておいて下さい。

とにかく私はいつでもドイツに行くと心に「日本代表」の日の丸のゼッケンを付けて行動しています。通訳もいないけど、ドイツ語もアウフビーダーゼンくらいだけど、英語もヒヤリングがやっとだけど、がんばっています。疲れるのなんのって!多分ね。

それなのに!今回、日本の中川財務大臣のイタリアでの醜態は、本当に本当に!恥ずかしいことです。ですから、ゲンゲンバッハがワインの産地で私たちはグラス一杯飲んだって、顔が曲がったり、目がうつろになったりしないように頑張らなきゃいけません。それって大変だと思うけど公人としては当たり前のことです。ましてや国の大臣ならば!話がそれちゃった。

ゲンゲンバッハの映像はココです

先生がんばっていってきます。(2009年2月18日記)

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2015/05/19

土浦霞月楼の屏風

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写真教室シャトロー会の撮影会で、茨城県土浦に行きました。私も最近は撮影会に同行し、いろいろ見聞を広めさせいただいています。

室町時代に築かれた土浦城址、まちかど蔵などの資料館も所々にあり、歴史の町でもあると分かりました。今回は芳州先生の新しいオリンパスのカメラSH1を借りて、松傘の落ちている地面と城門を撮ったりするのがデジカメ的で、撮るのが楽しくなりました。堀の中には鯉たちが泳ぎ、素晴らしい晴天の中菖蒲も咲き、歴史的建造物が所々にあり、ゆったりとした時間を過ごせました。いつの旅も私にはほとんど昼食が目的のような小さな旅です。今回は料亭「霞月楼」がメインの旅であったとも言えます。


戻ってインターネットで調べると、土浦は土浦駐屯地が大正10年1921年に海軍航空隊として開設され、横須賀から予科練が移設され、海軍航空隊、第二次大戦で米軍に接収され、警察予備隊を経て陸上自衛隊へと変遷しています。そして現在霞ヶ浦に面して自衛隊が駐屯しているのです。


霞月楼の会席膳は身体に良い食材を使って丁寧に作られていました。お酒も少しいただいてほろ酔い加減の時に、女将が霞月楼での予科練とのかかわりを説明してくださいました。予科練とは旧日本海軍予科練習生の略です。15,6歳から入隊し、若い飛行兵が明日出征するという日の前に霞月楼に来て食事をし酒を飲んで羽目を外すのは黙認されたそうです。百畳の畳をはがして重ねて遊んだり、また、屏風に記念の言葉を書いていきたいと書き残したりもしたそうです。


折しもその日の国会の審議で安倍内閣は国際平和支援法案と武力攻撃事態法改正案などを国会に提出しました。そのことを念頭に置きながらこの屏風の説明を聞くことは意義のあることでした。霞月楼の女将は屏風の中の回天、死生一如、ヌードのデッサン、昭和19年5月、また神州不滅の字の下にある磯のサインが人づてに伝えられて、存命である事が分かり、その方は磯部利彦氏と判明し、「火だるまからの生還」(高文研)の著書を出されていることも分ったのだという。霞月楼の女将のお話は私たちに戦争について問題意識を呼び起こしてくれました。


私もこの屏風から何かを探り出したいと調べてみた。春駒と梅太郎は芸者さんの名前だろうか。戦闘機の絵は回天だろうか。回天は人間魚雷と言われている。神州とは日本の国という意味。下地にはウズラの日本画も描かれている屏風だ。征空萬
里などの文字は信じて違わぬあのころの日本の教育なのです。上方の二文字の難しい崩し文字はわからない。所々にある人物模写は恋人の絵だろうか、たまたま傍にいた仲居さんなのだろうか。花櫻の文字は散るを意味して書いているのだろうか。

一双の屏風に託された若者の気持ちを約70年経って読み解くのも、歴史や、日本の本質を考えることと同じくらい大切な事のように感じる。それは今を生きる身近な若者たち、ぶっちゃけて言えば私のあとりえチビッコの最後の男の生徒たち、健太郎や智哉、
洸人、知之の人生へと思いを馳せることになるのだと思う。

日本を守ろうと空に散っていった若者たちが居たことを身近で感じた。だが絵を通して教育をしてきた私の立場からはこの行為を美化することは出来ない。それは今中東で起きている自爆テロにも通じるからだ。だが伝えていかないといけないことではある。

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2015/02/16

春を感じに小田原港

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海の見えるところに行きたいと思い立ったのが朝の10時。支度して新横浜まで歩き、新幹線に乗ったのは11時15分のこだま、15分で小田原に着き東海道線の早川について港の空気を吸う。
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魚市場食堂は長蛇の列で、30分待って小田原定食。

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食後の港散歩をしていると釣りのおじさんたち発見。その中に親切なおじさん。トウゴロウイワシの釣り方を丁寧に教えてくれた。私一人で15匹は釣れた。道具の説明は芳州さんに。今戻って鱗の取り方実践。また今度釣りに行くかもしれない。行って帰って6時間の旅は春の海の空気と自分をリセットするのに良かったと思う。

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2014/02/23

大倉山梅林と不思議なデジャブ感

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今日は大倉山梅林に梅見に行きました。東急東横線に沿って上る記念館坂が急斜面なので、アソカ幼稚園の脇を通るオリーブ坂から上っていきました。次女を梅林の先の山の上の緑が丘幼稚園に送っていった時のことを思い出したりしながら歩いていました。当時はうっそうとした雑木林だったところに今では新しい一戸建ての洒落た住宅が建ち、もうあの頃のようにツマキチョウはこの辺りを飛びそうもないような気がしました。春になれば飛ぶのかしら。飛んでほしいけれど。

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坂の上には、梅見の人が多く歩いていました。ぐるっと回って梅林の上に立ち、谷を見下ろすとお花見でお弁当を広げている人たちや写真を撮る人たちで賑やかでした。ここは今から60年前に鷹番小学校1年生の遠足で来ている。はじめての遠足だったからか、大倉山の駅の辺りの光景を覚えていてその後6年生最後の卒業前の遠足でもまた来た。その時、1年生で来た時を思い起こし不思議なデジャブ感を感じた。そして、その20年後にここに住み始め、娘を連れて幼稚園への坂を上る時に同じデジャブ感を感じた。縁ある場所なのだろう。今日は本気で写真を撮った。
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2014/01/13

松が取れてからの行事いろいろ

26_shougatu426_shougatu5 年明け早々のマンション全体での窓交換工事があるため、落ち着かぬ年明けとなっていた。我が家の室内の準備も粛々とし、再び書籍や書類のゴミを出し、工事の受け入れ態勢を万全にしていた。はたして心がけが良かったからか、その日は温かい晴れの日になり、予定通り工事は終了した。隙間風も無くなりかなりの密閉性がある。2月に入って玄関ドアの交換をして終了です。

26_shougatu6 また豆まき前に商売繁盛の一陽来復のお札をいただきに穴八幡に行った。穴八幡の女坂が以前は工事中だったが、今回くねくねと階段が柔らかく造ってあったので、行きには男坂を登り、帰りは女坂にした。こういう時は必ず芳州さんが、一言あっていつもは男坂を下るような気がするが、今回は私を気遣ってくれたのか自分が心配になったのか、自ら女坂を勧めてくれた。その気持ちを俳句にしたいと一日中考えて、もう一つのブログ≪旅歌ノート≫に書いた。

ルーテインワークのように蕎麦屋で天丼を食し、父を思い出した。父に報告したいことが三つだけある。『娘たちが良い伴侶を得て幸せであるということ。それと大瀧詠一が父のエリアに行ってしまったこと。母が94の齢を得て、なんとか元気でいること。その他エトセトラ。惠子は元気でいますよ。』26_shougatu1

母のお誕生日を介護施設でした。弟と姪と私たち夫婦とで色紙を持ち、弟はiPadの中に入っている写真を母に見せた。母はかなりの写真の人を理解して頭の方は明快だった。

26_shougatu226_shougatu3 あくる日は親戚の法事が飯能であったので、次女の家に前日に泊まり、越生の冬の朝を楽しんだ。法事の前に少しの時間があったので高麗神社にお参りした。神社の祈りは二礼二拍手一礼が気になって必要最小の願いの≪元気でいること≫しか祈っていない。

法事はたまに会う親戚がいたり、だんだんと親しくなっていく親戚もいる。上手に紹介し、永い眼でお付き合いしていけることが大切に感じる。帰りには2回ほどETCのナビを間違えてうろついたけど、飯能から16号を通って福生に出て横田基地の脇を通っていつもの橋本を通過した。福生は大瀧詠一の住んでいるところなので、心が少し動揺したけれど、安全運転第一で帰途に就いた。

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2013/04/10

太尾堤緑道を歩く

Hanamizuki 大倉山の桜も一重から八重に移り、春は毎年急ぎ足だ。入学式も過ぎ、私があとりえチビッコを終えた3月13日から1カ月にそろそろなるのだが、気持ちとしては2か月以上に感じる。

部屋の片づけをしまくり、ゴミを出し、絵を描く事をして、といっても小品を7枚描いただけではある。そうそう読みがいのあったのがマークスの山・上下(高村薫)を読んだ。芳州先生の運転手で八王子に行った時の待ち時間に近くのブックオフで探した本だ。川上に行って枯れ草を片づけ掃除し、それと並行して≪田園の誘惑≫をどうするか考えた。

このような事を言っても、タレントのブログじゃないのだから、面白くも何にもならないのだけれど、同じ場所に長く住んでいるので知り合いは多いから、自分と知人の間のご無沙汰の時間を埋めるのには、ブログを見てもらうのがてっとり早い。フェイスブックも知人との距離を埋めるのには良さそうだけど、今は自分にはこちらの方が合っていると思っている。それこそタレント並みに「ブログ見てね」なんて軽く言っているから責任も感じてブログを書いている。
きっこのブログ≫や安部譲二の≪あんぽんたんな日々≫のように面白おかしく書くコツはその人間性からほとばしってくるのだろうから、まだまだ私には勉強が足りない。

そして、春の一日ダイエットのため、鶴見川に沿う土手と、太尾公園、太尾堤緑道を散歩した。デジカメでハナミズキの木を上から見て撮った。赤い花が蝶のようだった。考えるとめったに赤い蝶はいない。

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2013/02/08

長崎ベルハウスの火災に憂うる

今夜、ニュースで長崎のベルハウスでの火災と聞き、2008年10月12日のブログ記事を読み返したところ、やはり長崎くんちの観光のために通りかかって、窓越しに和歌が書かれているのを見た、施設だと分かった。亡くなられた方もいるという。何も書いていなければ知らずに忘れられてしまうことだが、こういう形で、つまりブログで書いておくことで、その記憶が留められるということにその重要性があるということに今更ながら感じた。亡くなられた方々のご冥福を祈ります。以下はその時の記事です。

Nagasaki_71長崎に行って来た。以前からいろいろな方に誘われていたのだが、今回は時間ができたので、長崎くんちに合わせ行って来た。

長崎くんちはテレビで細かいところまで知ることができた。今年は7年に1度の大祭のようで、檀尻という山車が神社の境内で観客が注目する中、回転させる。 『もってこーい!』 の掛け声に応えて力いっぱい動かす。神社境内に満ち、満ちる両者の引き合うコミュニケーションがなんとも言えず良い! それが桟敷席でなく、テレビの画面でも理解できたのがすばらしかった。

Nagasaki_65 私たちの泊まった ホテルは長崎新地中華街の中で、結果的に行動しやすかった。長崎名門校、活水女子大学への坂道は横浜のフェリス女子大学への道とオーバーラップして感じた。まわりの木々のソテツなどの植生がやはり南の国を感じさせた。かの有名なオランダ坂を通ると銀木犀が薫っていた。

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東山手住宅郡の中に紛れるようにベルハウスという老人ホームがあった。窓越しにお年寄りが歩いていた。クリスマスの飾りのようなコラージュが貼ってあり、目黒の母を思い出した。孤独という字が湧き上がってきた。年を取るにつれ湧き上がる孤独感を何かに置き換えてはならないと思う。その時忘れたり、紛らわす分だけ後から押し寄せる。だからといって深刻になってどうする。どうする。心の中で自問自答。私なりの答えは出ているけれど。

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『 春真昼 ここの港に寄りもせず 岬を過ぎて ゆく船のあり 』 と、短冊に書いてあった。作者は誰か書いてあったようだが、分からない。

東山手地球館では日替わりで世界の家庭料理が食べられた。この日はタイカレーだった。そばで英会話のグループが先生を囲んで楽しそうに話していた。宮崎駿のアニメ映画の話題だった。そこからは私は芳州と別行動で、原爆資料館にいった。路面電車が4系統あり、乗り換えするとき切符を貰うと100円で市内を動き回れる。車が混雑する時は路面電車の方がタクシーよりも動きが早いようだった。

Nagasaki_49_2 原爆資料館内は撮影禁止のためそこに入るらせん階段を下りるときに撮った。まるでゼロ地点に下りていくように造られていた。入ってすぐに、爆心地から800メートルの民家の柱時計があり、時刻は11時2分を記していた。

  • 原爆を落とすまでの過程を記してあった。照明を落とした資料館の中で、気が付く事をメモした。多少の間違いがあるかもしれない。
  • 1944年 ルーズベルト、チャーチルが日本と決める。
  • 1945年4月 東京湾、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、京都、広島、呉、八幡、小倉、    下関、山口、熊本、福岡、長崎、佐世保を候補地とする。
  • 1945年7月 ニューメキシコで実験
  •     7月20日 パンプキン爆弾を広島、小倉、京都、新潟で実施
  •       23日 広島、小倉、新潟が目標となる
  •       24日 長崎が加えられる
  •       25日 トルーマン指令を承認
  •       26日 ポツダム宣言
  •              31日 テニアン島で原爆組み立て完了、連合軍捕虜収容所の存在連絡する  が目的変更無しとなる。
  •     8月6日 1:45 エノラゲイが原爆を搭載してテニアンを出発
  •          8:15 広島に原爆を落とす
  •       9日 2:49 原爆搭載機ボックスカーがテニアン離陸。焼夷弾の煙のため小倉に落とせず3回旋回し、長崎に変更
  •       9日 10:58 長崎上空も雲のため視界不良、燃料不足で帰還検討
  •       9日 11:02 一瞬の雲の切れ間に原爆投下

原爆が悲惨なことは分かっているが、こうして落とされることになったのを忘れてはいけない。戦争に反対しなさい!とトキワ松学園の笹尾菊枝先生は世界史の授業中に話された。そして、子どもを育てるお母さんはいつでも戦争に反対をしないといけないとも。戦争っていつ始まるの? 誰がその時を教えてくれるの?

遡って行けば、長崎にとってこの一瞬の雲の切れ間がなければよかったのに。広島に落とされたときに日本政府がすぐ降参すればよかったのに。原子爆弾は造られなければ良かったのに。戦争を始めなければよかったのに。

ところでこの長崎旅行中に3人の日本人がノーベル化学賞を取ったというニュースが報じられた。それも忘れられない思い出になった。そして、その夜の長崎くんちの庭先まわりでは、芸者さんの舞や邦楽が歌われ、三味線が流れ、太鼓も響き、だんじりも繰り出し、町中が賑わった。そこで私は 『長崎は今日も平和だった』 と感じた。Nagasaki_94

写真は上から1.長崎グラバー亭から平和公園方面を見て、2.大浦天主堂、3.オランダ坂通り、4.ベルハウス、5.原爆資料館、6.庭先まわりをする芸者さんのご挨拶の腰の角度が美しかった。

  

           

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2012/10/30

小さな美術展 第15回かまぼこ板絵国際コンクールについて

Suzuhiro_1 昨日小田原城内の二宮神社、報徳会館で『小さな美術展 第15回かまぼこ板絵国際コンクール』の表彰式があった。
応募総数が5661(ジュニア4162、一般1499)入選はジュニア、一般で金1名、銀1名、銅10名づつ。特別賞は久里洋二賞(画家)、谷川晃一賞(画家、評論家)、林紀一郎賞(画家)、高橋明也賞(池田20世紀美術館館長)、山田五郎賞(タレント)、佐藤雅子(ギャラリー上田館長)、また小田原市関係の賞、箱根関係、小田急関係、美術館関係と続き、23もの賞がジュニアと一般に設定されているので200人近い受賞者が集まった。それに同伴者が居るので何人になったのだろう。Suzuhiro3

私は久里洋二賞をいただいた。作品は蒲鉾板を2枚横につなげ、そこに木の年輪を描いた。そしてその年に起きた出来事を文字で書いた。それは虹色の年輪であるが題名は「幸福な年輪」だ。中心円は私の誕生で赤から始まり、5才で幼稚園、6才で小学校入学、10才で腎炎、12才でトキワ松中学、15才でトキワ松高校18才で女子美術短大、20才で社会人、23才で結婚、25才で長女出産、27才で次女出産と29才であとりえチビッコ開始と続き、子供たちの成長も書き、夫の仕事の変遷も書いた。この場合プライバシーは無いと考え、発表した。父や義母や犬の死も書いた。自分の人生が可視化出来て、すっきりしうれしくなった。展覧会に作品を出してから、同じ位の太さの木で、また2枚描いてみた。なんとなく娘たちへの遺言と思えなくもない作品だ。蒲鉾板の脇には小さく芽を伸ばしたが切られてしまった若い日の心変わりなども書きこんで楽しかった。

作品展の受賞では面白いご褒美を久里洋二先生から頂いた。おしゃべりする貯金箱だ。一日の中で時々呟く。100円を入れるたびに口や目が動きおしゃべりをし、合計金額を言う。これからの一日を有効に使えそうだ。ありがとう久里先生。そしてその表彰式の後のパーテイーは中華を中心とした大変美味しい御馳走だった。車では行かなかったので乾杯のビールも飲めて、そばにいる受賞した子どもたちやご両親たちとお酒を薦めあって和気あいあいとした時間を過ごした。小田原城の一角にある会場なのでお庭もすばらしかった。以前私はメセナについて書いている。

「三菱アジアの子ども絵日記フェスタとメセナについて」≪私は年に1、2回子供の絵を公募展に出している。またそれを心がけている。今まで、鈴廣蒲鉾主催のかまぼこ板絵コンクールやパンの会社の公募などにだした。公募展は以前はもっとたくさんあったと思うが、最近では少なくなった。蒲鉾展では表彰式で素敵なパーテイ-に招待される。三菱の絵日記フェスティバルは以前、あとりえの子、森屋萌ちゃんが入選し、日本一のグランプリを取っている。・・・・・・・・・・・・・さて、このように芸術、文化を支援していくことをメセナと言う。古代ローマ時代皇帝アウグスツスに仕えた高官マエケナスが詩人や芸術家を手厚く庇護したことから、後世その名をとって、「芸術文化を庇護支援すること」をメセナというようになったのが起源であるそうだ。日本では1990年に企業メセナ協議会が発足している。(はてなダイアリーより)≫

『鈴廣かまぼこ』では蒲鉾板を使っての作品を公募し、芸術家に貢献し、入賞した人たちにご褒美を用意し、他の蒲鉾会社、小田原、箱根の観光にきっと貢献していると思う。この仕事をやり始めたのは現会長の鈴木智恵子氏だ。初めからこの仕事をしていた訳ではなく夫である社長がなくなってから就任している。今回でお会いしたのは2回目になるが、偉い人だと尊敬している。

ところであとりえチビッコOBOGも保護者の方も作品の公募に応募してはどうだろう。みんなで集まって≪がんばって賞をとってパーテイーに行きましょう≫なんていいかも。そしていくら鈴廣蒲鉾が太っ腹だとしても、練習はほかのマークの板でも本番は鈴廣蒲鉾の板でメセナの精神に応えて出展しよう。

私たちは家に戻ってから相棒と一緒にお土産の蒲鉾や伊達巻を食べながら作品とメセナについての話が盛り上がった。またあらためて小田原や箱根に行きたい。早春の箱根になるだろうか。

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2012/06/28

ドイツCelleのBook project

ドイツ北部ツエレはおとぎの国のように町が出来ている。旧市街には古い木組みの家々が並んでいる。その町の中の本屋さんには今から13年前にも来たことがあった。日本では探している本の検索などということが無かった当時、ツエレのその本屋ではそれが可能だった。確か、不思議な動物の本についてお聞きしたと思う。あれから13年がアッという間に経ち、今回またツエレに行くことにしたのです。

D_bp1D_bp2jpgD_bp3 その本屋に立ち寄ると中学生ぐらいの女の子が数人で絵を囲んで何か相談をしていた。そして、気がつくと外に出て何か相談をしている。何だろうと私も外に出てみると、さっき見ていた絵や工作のようなものを飾ったりしている。そばにいた先生らしき人がいろいろ指図している。お聞きすると『ブックプロジェクト』と言う。あとは先生が時間が無いからとおっしゃったのでただ見るだけにした。子供たちの中には私に英語で説明してくれた子もいた。

D_bp5D_bp6 午後になって本屋に行って、ウィンドウの中に完成されたデイスプレイがあった。こんなチャンスがあったら私もうちの子供たちを連れてブックプロジェクトに参加したいものだと思った。

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