ひまわりと私の好きな色とドイツ国旗
白樺の木の葉がだいぶ落ちたので、太陽の日差しがかなり入り込んでくる、10日ぶりに来た川上だ。快晴の今朝の気温は6度だった。昨夜来た時から石油ストーブを微弱でつけている。朝食のサラダにはルッコラとセロリとイタリアンパセリを我がクラインガルテンから採ってきた。これらは真緑だ。

白樺の木の葉がだいぶ落ちたので、太陽の日差しがかなり入り込んでくる、10日ぶりに来た川上だ。快晴の今朝の気温は6度だった。昨夜来た時から石油ストーブを微弱でつけている。朝食のサラダにはルッコラとセロリとイタリアンパセリを我がクラインガルテンから採ってきた。これらは真緑だ。
今朝のNHKラジオの、≪著者に聞きたい本のツボ≫では高橋源一郎の『非常時の言葉』が採り上げられていた。
≪あの3・11からの後ではもう読めなくなってしまった文章と今なお読める文章との違いはなんだろうかと考えてみる。すると「あの日」以来、ひとつには「死」というものが身近にあることに気づく。「自分の死」を勘定に入れずに成り立つ「日常」の文章を、もはやそのまま受け入れるのは難しいのだ。≫と説明している。
不肖私もあの3・11から波のように書ける日と書けない日があったのを漠然と感じていた。それを明快に表しているようで、これは「非常時の言葉」は取り寄せて読まねばと感じている。私の場合はただ単に才能のない凡人が普通に日常的に起きたことかもしれない。だが現実に福島のいわきの親戚の人たちのことを思うと、どんなことも差しさわりがあり、傷つけることになると感じた。
また地震や原発が無くても、人は平和な時でさえ鬱や引きこもりになるのだからこのような時はなおさら、周りの人の病の引き金を引くようなことはしてはいけないと躊躇することばかりだった。だから、放射性物質も自分自身は心配だったが、それぞれが考えて決めることと決めて、ほかのことだったらブログを通じて書けることも控えていた。それと、化学に疎いのだから何か言うなんて無理だ。
このような気持ちが起きるのもあの3・11から1年半が過ぎたからかもしれない。また話は変わるが、私は35周年の集いのパーテイーが終わってから、あることに焦る気持ちがあった。それは次女が小学1年から2年生までの間に書いた作文を形あるものにしたいということだ。
今から30年前、大豆戸小学校の1、2年生を担当してくださった結城先生が毎週水曜日に出してくれた宿題だった。作文帳は4冊になっていてその日のことや前後の日々のことや家族のことを書いていて、それは今も我が家に残っている。読み返すとあの頃に起きたことが、素直な文章によってまざまざと蘇ってくる。もしも、今、一大事が起きたら、私はそれをもって逃げるだろうというほど、貴重な存在になっている。私は出来るだけ早く結城先生に形あるものにして感謝の気持ちを表したいと思っている。同じ小学校に通った長女はそういう宿題が無かったので、残念ながら作文があまり残っていない。
私は時間があると、パソコンのワードにその作文を入れていて、9月中に入れ終わった。あとは私流の小冊子的な製本をしたい。本当は本人の幼いたどたどしい文字で製本したかったが、文字が大きすぎるため、活字にした。次女は製本について、最近勉強しているので、私の作り方では満足できるとは思えないけれど、私が以前母の文章を小冊子にしているのを知っている。そんなノリで私が作ったのは分かるだろう。今年中に製本をし、形あるものにしたい。
そしてまた「非常時の言葉」に戻れば、小学校低学年の子供が言葉を覚え、文字を覚え始めた時の文章は自分の周りに対して新鮮な驚きがある。時間が経てば経つほどいつまでも読みたい文章として光り輝いてくるのじゃないかと感じるのです。だから、3・11の後でも、文章は稚拙であってもともかくも生の喜びを感じる≪残したいもの≫になるのではないかと思うのです。親馬鹿丸出しかもしれないが、高橋源一郎氏の「非常時の言葉」に触発されてつぶやきます。
ガーベラ3色とヒマワリの中から1輪を選んで描かせた。
愛してる、愛してないと花びらを抜くことを知ってるかと聞いたら、6年生も1年生も知っていた。それなら好都合とどのように描いても良いと説明する。もったいないけれど花を解剖して描くことも必要だ。
そして『花は咲くプロジェクト』の音楽を聞き、描いた。あとりえチビッコでは音楽を聞いて描くことをよくしている。それは音楽に象徴されているものをイメージして描くことをさせているのだが、今日はいつもと違い、『花は咲く』の意味を考えて描くのであった。被災地出身の人たちの歌声は悲しみと、もう戻れないあの頃と、これからの自分に問うものが歌と詩を通してジーッと伝わってくる。まあ子供たちには重すぎるかもしれないし、何もわかっていないかもしれないが。でも子供たちの絵からは花の美しさが伝わってくる。今はそれでいい。
左からアスミ、ヒロト、マナミ。
左からレイナ、リホ、リコ。
今日も子供たちは幼稚園時代の友達の話や、運動会で踊るソウラン節がいやとか、話しながら、楽しく絵を描いたのです。
※ 印刷のことは書体を変えてみましたらスムースにできました。よく意味がわかりませんが、まだまだパソコンは私にとって魑魅魍魎です。
明日で東日本大震災から一年が経ちます。
ここに東日本大震災で亡くなられた方々《 15854人》行方不明者《3167人》のご冥福を祈り、被災された方々の物質的な回復や精神的な快復をお祈りしたいと想います。(数字は2012・3・9現在)
小学校の同級生に松川烈くんという男の子がいた。彼は二十歳の時に剣岳で滑落遭難し亡くなった。小学校卒業の時から会わずに亡くなったから《男の子》だった記憶しか無い。そのことは2年前のこのブログに『点の記を二度観て』で書いている。私が何故そのことを今日書くのかの理由はこうである。
鎌田實の『八ヶ岳山麓日記』をよく見ている。鎌田先生が東京医科歯科大学出身で松川君より多分1年後輩に当たることを以前知った。そして鎌田先生は今回の地震や原発事故に対して被災地に医療の救援隊を派遣し、お風呂のプロジェクトもし、ブログでは放射性物質に対する考え方や被災地の状況を報告してくださり、不安になる気持ちに映画の新作紹介などを交え、みんなの不安を分かってくれた。日本政府の言っていることが信じられない不信感が漂う中、医師としてこの一年、明るく道を照らしてくださった。
私は同じ時期に同じ場所で学んだ人が一人は20歳で命を落とし、一人は本来の目的であった医師として60有余年働いて、人の命を救い、今回の原発事故では今までのチェルノブイリでの研究を生かす行動に出ている。たくさんの仕事をしてくれた。何という人の命というものは尊いものなのだろうという思いが湧き出てきている。、今こうして鎌田實という人を知ってまた新たに、私の小学校の同級生松川烈君に思いが繋がっている。彼だって、生きていたらきっと、いろんな事ができたはずだ。町の歯科医になって、子供たちの歯の矯正をしていたかもしれない。そしてあの津波に飲まれて亡くなった子供や親や祖父母の多大な損失を思う。経済や損得の問題ではない。
東日本大震災で亡くなった人、特に子供たちの生命の尊さ、生命の重さへと考えが思い至る。あの津波の情景は日本人として、いや、地球人として忘れられない光景だ。残された人の中には『亡くなった人の分まで生きて働きたい』と思っていることだろう。震災にあった子供たちはまだそのようには考えられないかもしれない。でもこれから生きていくうちに、人生の節々でそれを感じるのではないだろうか。
こうして東日本大震災以降、多くの事が変わってしまったことも在るような気がする。もう一年経ったのだからと考えるべきかもしれないが、同じ日本人として修復できない気持ちも残る。いつまで経ったとしてもリセットは出来ない。
だが、私は小さい子供のための造形教室をしている、この波乱を含んだ時代に生きる子供たちのため放射能でも津波でもイジメでも、どんと来い! と心だけは構えている。……と言っていたのは3・11以前の私だ。ガックンチョ! 今は我が身の無力さを知った。それでも、頑張らなきゃならない。それには日本人として知力こそ大切な力のような気がする。まあそれにもいろいろ限界はあるのですがね。それこそ、死んだ人の分も生きないといけないのだから。
頑張らない生き方もあるけれど、頑張る頑張るって言って、現状維持で生きる生き方がある。もしかしたらそうやっていて、何か掴めるかもしれない。何しろ人生はTo be continueなのです。
もう一言、東北の復旧活動をする政府にはより一層スピーデイーにやって貰いたい! もう一年も経ったのだから。日本のプライドにかけて! (一部記事を削除しました)
今日はクリスマスイブだ。この時期になるといつも教会のクリスマスを思い出す。私は中学から20歳までプロテスタント教会(碑文谷教会)の日曜学校に時々通っていた。弟と一緒に行くこともあったが、私はその頃から人は死ぬとその魂はどうなるか?とか考えていたので弟とは目的が違っていた気がする。その頃のことを思い出すと懐かしい。牧師様のお説教など宗教的な高揚もあったけれど、世界史の中のキリスト教を理解するうえでは大変プラスになったのだと思う。同時にビートルズや日本のポップスの全盛期になりかかってもいたので友だちの中に新しい音楽に詳しい人がいて、話しているのを小耳にはさむとそれだけで楽しかった。私が通学しているのが女子だけの中高だったから、余計男の子の考え方に興味が感じられた。良い時代だった。クリスマスにはいつも付属の幼稚園ですき焼きパーテイーをした。
今年のクリスマスは、原発や震災で避難している人を思うと、静かにしていないといけないような気がしてくる。でも、元気で明るい自分を抑え過ぎていたら、鬱になりかねない。小さい子供たちを預かって造形教室をしているのだから冗談も言うし、明るくもなる。放射能も怖いが、それだけで自分の娘たちに逃げろとか疎開しろとかは言えない。ましてや生徒のお母さん達にだって言えない。みんなこの狭い日本の中で、夫が働く生活を、支えて生きていく妻がいて、子供がいる。
今、長野の川上村でクリスマスの日を迎えた。今年一年を考えると今までで一番重いクリスマスのような気がする。福島の人たちは本当にお気の毒だ。我が家の親戚の人も苦しく悔しい思いをしていると思う。しかし、その事に気をとられてはいけない、フランスのオルレアンの少女は自分まで弱くはならなかった、戦うことが出来るためには自分の心が弱くなったり、体まで弱くなってはいけない。とココで私は昨夜お腹を壊した。そこでこのような言葉が出る。こちらは相変わらず寒い。今朝はマイナス12度だった。クリスマスイブの食事に清里のMorimotoのチキンを購入して用意していたので、どうしても1日で直そうと決めてがんばった。多分この寒さが聞いたのではないかと思う。治って食すことが出来た!
ランタンの明かりが予想外に明るく暖かい。原発をなくしてもっと原始的なエネルギーに変えることが出来ればと思うが・・・・・・とにかくもっと勉強をしよう。苦手な事なので、バケツの水は溢れがちではあるが。
8月は日本にとって悲しい記念日が多い。6日が広島原爆忌であり、9日が長崎原爆忌、12日は日航機墜落時事故の日で、15日が終戦記念日となっている。そして11日は東日本大震災から5カ月を経たが、まだまだ仮設住宅が建設できていないというニュースがある以上11日という日は、『あれから6か月』、『あれから7カ月』『あれから8カ月』とずーっとカウントされていくべきものだ。よく考えればいろいろなことが元に戻るまで、これは月単位でカウントされるべき日本にとっての重大事なのだと思う。
私の今いる山小屋から御巣鷹山は30キロも無い。日航機墜落事故当時は私たちの山小屋はまだ建っていなくて、テントで生活を2日間して、峠を越した民宿の温泉に入りに行った。そこに着いたばかりの時にこの事件を知った。民宿の階段から見たテレビに大きくオレンジ色で川上村と書かれていたので、置いてきた自分たちのテントが丸焼けになってしまったかと驚いたのを覚えている。翌日に戻ってキャンプサイトから自衛隊のヘリが何度も何度も行き来するのを見て、もう一泊する予定を止めて帰ることにした。帰る時にカーラジオから川上慶子さんが救助されたことを聞いて家族で歓声を上げて良かったと言いあった。その時は我が家の長女と同学年だった。あの時はお盆の帰省客でジャンボ機は満員だった。あれから26年がたち、その時に事故に逢い亡くなった坂本九さんの≪上を向いて歩こう≫と≪見上げてごらん夜の星を≫は今回の東日本大震災で、追悼、応援の曲としてよく流れた。日航機墜落の日は現在では航空安全の日、茜雲忌となっているそうだ。
ここ1週間はお盆の時期にも重なり、実家に帰省している家族が賑やかに集まり、山小屋近辺も時には孫や子供の泣き騒ぐ声がそこここで聞こえる。我が山小屋も来客で右往左往していたが昨日で皆帰っていった。
客人を平常私たちがよく行くところお連れしても、たまたま、客人が道の選び方を違えると全く新しい経験をすることがある。不思議な気がする。清里では萌木の村の裏道に滝見をする場所を見つけた。また白州のシャトレーゼのケーキ工場への見学をしに出かけたが渋滞があったため、途中ではあったが、『七賢』の看板を見つけて酒造所見学に変更し、思いがけず日本酒の利き酒を決め込むことになった。私たちには初めての体験だった。醸造の仕方が違い、たくさんの種類の七賢があった。私は絹の味、夫はたる酒が気にいった。明治天皇が滞在したという寝屋や苔むした庭を見、その間のエピソードの説明を受けて、日本という国もなかなか奥が深いと感じた。直営レストラン≪臺眠≫では一階で小一時間も待ったが、ジャズが流れ漆喰の壁が良い雰囲気を醸していた。二階は古民家風の作りになっていて私はとろろ定食を食した。水が良いところはお酒も美味いということだ。
その外出の前日、14日には川上村の花火大会があり、初めて見に行った。村という小さい自治体にしては華々しい花火であった。大きな大輪の花が夜空にバンと咲いてチリチリと小さな花びらに変わっていく時に命の炎のような欠片が3月11日に亡くなった人たちのような気持がした。その時に飛来した心模様はあえて言うまいと思う。あの爆発のエネルギーを私たちは何らかの形に変えていかねばならない。それでこそ花火の目的である鎮魂の思いがあるからだと考えている。
いつも夏休みになると母は「戦争中はすいとんを食べたのよ」と家にある野菜ですいとんを作ってくれた。だから私も子どもたちには夏によくすいとんを作る。戦争中は野菜も少なく質素なすいとんらしいが、私が作ると少し豪華なすいとんになってしまう。今日は来客用の残りの食材を使ってすいとんを作った。T君のおじいちゃんの作ったインゲンや茄子や、Sの持ってきたカボチャも入れた。そうそう、手巻き寿司の残りの刺身も入れちゃいました。こうして冷蔵庫はどんどんすっきりとして夏も終盤に向かいます。きっとお絵描きの子供たちのおじいちゃんおばあちゃんも孫たちが帰って、幸福感と脱力感を同時に感じているでしょう。お疲れ様!そして自分にも『お疲れ様!』 なんてね。
毎日が東日本大震災への祈りで過ぎていきますが、明日は久しぶりにあとりえ・チビッコがあります。子供たちと今までと変わらぬ絵を描く時間を過ごし、なおかつ私自身の新しい発見や感動を伝えていきたいものです。
先ほどは思想家内田樹と宗教学者中沢新一、ラジオデイズ社長平川克己の「今日本に何が起きているのか」をUSTREAMで放映されるのを見ました。今起きていることを学者の立場で冷静に、歴史も踏まえて、化学的な考察もしながら、何故、原発事故が起きてしまったかを分かり易く、話してくださり、大変為になり感動し、力が湧いてきました。日本版『緑の党』が出来るかもしれないのです。
また現在被災地に行くことは今のところ足手まといになり、無理だと思うので、義援金寄付をしたいと考えていました。そこで私は八ヶ岳山麓日記のブログから鎌田實先生の長野諏訪病院の医師としての立場と、チェルノブイリ原発の調査をなさっていることから、『日本チェルノブイリ連帯基金』原発被災者支援に義援金を贈りました。孫さんは昨日100億円寄付したと聞きましたが、私たちはそのミリとマイクロシーベルトの違いくらいで寄付しました。
福島には親戚が3軒あります。宅急便が通じたので、この間心ばかりの支援物資を贈りました。電話では原発の心配もあるけれど、息子の仕事の応援もしないといけないと言っていました。お嫁さんを孫と一緒に実家に預けたそうです。
長期化することを念頭に入れて東北を支援していかないといけないと思いました。
鎌田實のブログより
• JCF(日本チェルノブイリ連帯基金)では被災地支援のため募金募集を行っております。頂いたご寄付は、原発被災者支援の医薬品と現地で必要な物資の購入費、またその輸送費に充てます。振込口座など詳細はこちら
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